アメリカ

1.アメリカ走行ルート  2.セントローレンス河 3.ケベックの夜景   4.水門は15箇所    5.水門周囲の落書

2.7日目にカナダの領海に入ると、船にはカナダの国旗を掲揚した。朝は雪が降り、操舵室で船長達と美しい入り江に見とれていると、機関長が入ってきた。「どうもエンジン室で変な音がする。音源は隣の船倉からで、ハンマーで壁をたたいているようで、モールス信号のSOSのようにもとれる」と、部下から報告があった、という。船長は「何かの勘違いじゃないの」といいつつも、その船倉の蓋を開けさせた。すると、中年のユーゴスラビア人男性が1人、船底で寒さに震えていた。事情をきくと「女房とけんかして、またろくな仕事も自由も将来性もないユーゴがいやになり、カナダにでも移民しようと思って密出国を企てた。なんとか手助けを---」。モールス信号は軍隊で習ったという。船長は、ベルギーにつれて帰れば責任問題が発生するし---思案の末、ケベックの移民官が乗船してくると移民受入を頼み---見事に成功した。自分の運命を自分で切り開いた彼は、いまごろ幸せに暮しているかな?

 水路が細くなると、水先案内人が乗船してきて誘導する。その案内人いわく「日本船は遠いパナマ運河を通ってくるので時間がかかるため、ここでも速度を20ノット位に上げ、よくぶっつけている。体当たりでシカゴに急ぐ姿は、まさにカミカゼ的だな」と。作業が終了して下船する際に「ここの主な産業は何か」と、まじめな質問をすると、「WEMEN]と答え、片目をつぶった。

3.河口からシカゴまでは2500kmの船旅になる。15の水門(ロック)でその都度押し上げられ、海抜210mまでさかのぼる。ある水門では、10〜20mも押し上げられた。水門の仕組みは---、水門に入ると船をとめ、下流側の水門を締める。上流から水門内に水を注入して、上がる水位とともに船を上流側と同じ水位まで上げる。上流の水門を開けて前進する。

4〜5.水門での作業中は、食料等の調達はあるが、ひまである。そこで、作業者はひまをもてあまして、落書きとなる。オンタリオ湖終点のロックbPでは、船長が「車は船に残してここで降り、バスで30分もゆけばナイアガラの滝が見られる。その後は、エリー湖入口のバッファローの水門で乗船すれば」と、私にグッドアイデアを提案してくれた。しかし、ときにはマイナス52度にもなる地である。それに、車と離れると、どんな支障が起きるか不安だったので、あきらめた。

6.シカゴ上陸       7.ミシガン湖から   8.アメリカドライブ    9.クブリー夫妻    10.サンフランシスコ

6.セントローレンス河→オンタリオ湖→エリー湖→ヒューロン湖→ミシガン湖のシカゴの岸壁に着く。船上の国旗は、いつのまにか星条旗になっていた。さっそく、葉巻をくわえた黒人作業者が乗船してきた。アメリカである、と実感した。アメリカ入国に際しての最大の悩みは、所持金だった。わずか250ドルでは、不法就労の危険があるとして、入国禁止になる恐れがあり、それは、この旅の頓挫を意味していたので、長い間悩み、眠れぬ夜がたびたびあった。アメリカにきた目的はアルバイトが主で、今回は、観光は二の次だった。

 ところが、審査官は所持金を聞かず、私が希望した6か月間のビザをポンとくれ、さっさと入国手続きをすませ、笑顔でグッドラックと握手さえ求めてきたのである。これには助かり、彼が神様仏様に見えた。まさか貧乏旅行者が、ヨーロッパから貨物船に車を積んでくるとは思わなかったのかも知れない。
 ほっとして、逃げるように走りだすと、運悪くガス欠でストップ。それもそのはず、乗船に際しては規則でガソリンを抜いていたのである。なんだか審査官が所持金未確認を思いだして追ってくるようで、気があせり、急いでポリタンクを持って近くのガソリンスタンドで買って戻り、注入した。すると、この間なのか、ベルギーからここまでの間なのか、車中は泥棒に荒されているのに気づいた。ダッシュボードにあったカメラのフラッシュ、温度計、各国のコイン等がなくなり、お守りはきれいな袋がなくなり、なかの木札が床に落ちていた。自給式ガソリンは1ガロン40セント(1リットル41円だった)

7.アメリカの交通事故ではその補償金が高く、万一を考えると貧しくとも保険に加入すべきである。ところが、訪れた保険会社では「事故を起こす確率が高い外国人観光客は、会社に損害を与える可能性が高いので、NO!」と断られてしまった。ヨーロッパは、交通事故対策は個人では無理で、社会的にやろうという政策で一致しているため全員強制である。アメリカは個人や会社の範疇でやれ、というまさに資本主義の本家であった。個人や会社の論理が優先するアメリカでは、健康保険にも入れない人が大勢おり、問題になっている。そのためか、過日はアメリカの調査団が日本にきて、国民健康保険制度等を研究する、といっていたが、その内に、アメリカでも、この種の社会政策が導入されるかもしれない。

 最初の夜は、雪ふるミシガン湖につきでた、無人の堤防の突端で寝た。寒さのあまり、ズボンをはいたまま寝袋に入った。すると、夜中にパトカーがきて「こんなところで寝ていると、殺されるぞ!ここはシカゴだぞ!」と警告された。しかし、「こんな寒い所にくる泥棒はいないだろう」と、都合よく決め込んで寝てしまった。もし襲われていたら、一巻の終わりだったろう。

8.アメリカの幹線は往復4車線以上で、中央分離帯が10m位あり、直線が多い。ユタ州では、塩湖の湖底のような平原を走り、直線距離は約80kmあった。大平原で陽気がよいと、つい単調な運転で眠くなる。そのため、ハンドルさばきがあやしくなって、ハッとすること再三再四。その都度、いつものようにほほをつねる、声をだして歌う、あめやガム等で睡魔と闘うが、危険を感じたら道端やレストハウス等で仮眠した。同じ運転姿勢を1日中つづけていると、お尻が痛くなってくる。そこで、左右のお尻を交互に上げたり、腰を浮かしてみたが、長くはつづかなかった。

 数え切れないほどの牛がいる大牧場、3台のジーゼル機関車に引かれた100両以上の貨物列車、路上には轢死体がときどきあり、自然の豊かさを感じさせた。ウサギ、タカ、鹿、キジ、ウズラ---。行き交う車には、日本ではおよそ見かけることができない”さすがアメリカ”と感嘆させられる豪華なものや個性あふれるものがある。豊かだし、個性表現がススンデイルのである。カリフォルニア州は野菜と果物は検疫上から持込禁止だった。

9.デンバーでは、クブリー夫妻宅に寄った。モロッコ旅行中、アメリカの若い女性ヒッチハイカーを約330km乗せた際「アメリカにいったら、家に寄ってネ」と住所をもらった。そこで、近くを通ったので寄ると、彼女はまだスペインを旅行中だったが、両親が親切に迎え入れてくれた。夜はレストランでカエル料理をご馳走になり、ベッドは空いていた彼女のを提供してくれた。私も、日本の観光用カラースライド約800枚をスクリーンに映して見せた。翌朝、3人で朝食にかかろうとナイフとフォークを持つと、夫妻は祈っているではないか。あわてて両手をあわせ、お祈りにつきあい、無事食事に入れた。以後は、キリスト教徒等の習慣、現地の方のマナー等に対する理解を深めるようにした。

 余談だが、日本人の食マナーをそのままだしたら、世界の招待者はその貧しさ(食マナーの貧困さ)にびっくりして評価を下げるだろう。食事マナーも訓練されていない、ただの経済大国人と誤解され、軽蔑されるかも知れない。食事時の姿勢、会話、順序、スピード---はよいとして、問題は”すする音”である。一般的に、欧米では食事の際、他人が迷惑・不愉快になる音はたてない。

 じつは日本も、正統な食マナーを身につけた品位のある方は、食事に音は立てません。伝統をかたくなに守る福井県の曹洞宗大本山永平寺、京都の真言宗総本山醍醐寺等では、タクアンでもご法度である。それでも飲食はおいしく、楽しくできるのである。江戸時代の町人社会でも、ソバ等を食べるときの音は無作法として軽蔑された。ラジオが普及して落語が江戸話をするとき、ソバやウドン等を食べる有様は、音をださないと聴取者にわからないので、無理やり音を立てたため、それがいつしか広まったのではないか、と専門家はいう。

 一方で、日本文化の特徴である貧の文化・同属社会・島国の特性か、大衆の食マナーは欧米のように研鑚されなかった。歩き方、面従腹背等の自己の意思表示の仕方、薄気味悪いにやけた表情---も、しかりである。近年は箸を正しくもてない、すり足で歩く、人前でガムをかんだり、ガムをかみながら話す、飲食しながら歩く、食べながら話す、大人の幼児性発音、できちゃった結婚---とエスカレートしている。ラジオやテレビの影響が絶大なのは、国政選挙でもご存知のとおりで、食マナーは教わらなかったから、ラジオやテレビでの落語の世界がいつしか「食マナーの伝播役」をはたして日本中にひろまり、いつしか”すすって”食べるようになってしまったようである。慎み深い女性等は、伝統を守って音はださないが、今やご飯、味噌汁、お茶、中華麺類、スパゲティ---までも、それも日頃は教養を自負している人までもズーズー、ツルツル、ピチャピチャ、クチャクチャ---と平気でやっている。不愉快な音をたてまいと、静かにソバやウドン等をたべたら、笑われることさえあるのが日本である。(この点は、深田祐介氏の本「新西洋事情」でも、「ロンドンのレストランで、日本人観光客が団体でズーズーとすする音をだし、他人からひんしゅくをかうのではないかと、アテンダントが心配する有様が指摘されている)

10.シカゴからサンフランシスコまで、約4000kmを無事到着。テレグラフヒルからの夜景はすばらしい。ゴールドラッシュで沸いた町は霧が多く、道は狭く、坂が多く、今や駐車する所をさがすのは一苦労である。さっそく、駐車違反で即金払い10ドルの洗礼を受けた。にもかかわらず、昔栄えたケーブルカーは交通渋滞にもかかわらず、ゴールデンゲートブリッジやベイブリッジ等とともに観光対象となり、その存在意義は変化し、ビジネスエリアは郊外に移りつつあった。

 車社会では、アクセスや駐車等が死命を制す。このためか、サンフランシシコの老舗のデパートは傾いていた。この町では限界に近づき、郊外には、数百台の車が駐車できるシアーズ等のスーパーが繁盛していた。私はこの現象を見て、直感がひらめいた。”日本も車社会になれば、似たような現象が起こるだろう”と。そして、帰国後は、日本も車社会になり、直感どおり、都会のデパートが衰退してゆくのを目の当たりにした。先進国は、後発国によい見本を示してくれる。これらを先取りするのが常識で、しない経営者、都市計画者、為政者等は---いかがなものか?

11.漁夫の波止場   12.ヒッピーの全盛時代 13.同左         14.旅行資金稼ぎ  15.カーネーション温室

11.フィッシャマンズ・ウォーフは、魚介類の食通にはもってこいの所である。鮭釣等の釣舟も多い。

12〜13.若者のベトナム反戦・反核、徴兵拒否、黒人差別反対、ウーマンリブ、フリーセックス、ホモ・レズ認知等のエネルギーは盛んだった。世界最先端のカルチャーの多くは、年中心地よい気候で、豊かで、自由な気風があるこのカリフォルニアで生まれていた。いまもそのエネルギーはあるのか、どこが最先端文化発信地か、テーマは何か。物的豊かさで、本来のハングリー精神が去勢され、腑抜けになっていないだろうか。

14〜15.アメリカには王様が何人もいる。(最近ではメジャーリーグ野球で、シアトルマリナーズのイチロー選手を「内野安打の王様」といっている)「かぼちゃの王様○○氏」「レタスの王様◎◎氏」等と、農業や花の業界では、その生産高ナンバーワンの人を、生産者仲間等が羨望をこめて?こう呼ぶ。カーネーション王は日系のシバタさん、とか。その彼が経営するこの温室は、かなり自動化されており、室内の温度変化に対応して屋根や壁が自動的に開閉し、換気扇がまわり、肥料と水はボタン一つで苗床に張り巡らされた細いパイプからでるようになっている。建屋規模は全米5位で、世界中から研修生を受け入れており、日本からもきていた。作家スタインベックの著書「怒りのぶどう」の背景になったサリナスで、支配人のジュン・ウチダさんと私。

 アメリカでのアルバイトは、このときと、いったん南米のコロンビアまでドライブし、単身、飛行機で戻って再び働いた。このカーネーション温室では土壌造り、苗床造り、苗植え、支え棚造り、ムダ芽欠き、つぼみに割れ防止用セロテープ巻き、花の切りだし、運搬、建物修理等をした。他には柿の箱詰め、庭師の手伝い、木造温室建設、写真現像所でカラー写真作成をやった。温室での作業者はメキシコ系が多く、メキシコから密入国してきた出稼ぎ者も多く、これからゆく中南米で不可欠なスペイン語の勉強には、絶好の場所だった。カーネーションは、「母の日」に卸値が高騰するので、前1か月間は夜も電灯を灯して最大の出荷をはかる。菊も同じである。これらのアルバイトとは別に、日本の観光用カラースライドを約800枚とプロジェクター等の機器を用意し、マイケルが英語で吹きこんだ説明テープとともに見せる「日本紹介スライドショー」を企画した。だが、2275枚の案内をだした返事は8通のみで、それも値引き交渉を経なければならない等の制約がついていたので、結局1回も開催せず、大損害だった。ただ、このカラースライドのセットは、後に世界中でお世話になった人に見せ、大変好評だった。

16.キー・ウチダ一家 17.彼の新築木造温室  18.現像所の社長   19.車の全面修理   20.ラージマウスバス

16.日系1〜2世の職業は庭師、花栽培、農業が多い。3〜5世は並のアメリカ人のように各界に進出し、国会議員もいるのは承知のとおりである。ここではみんな明るく、聡明で、働き者で、子供の教育に熱心で、カリフォルニアの地に合っており、周囲のアメリカ人からの評判もよかった。黒人やメキシコ系が一戸建て住宅を購入して住むと、その地区の住宅価格が下がるといわれていたが、いまの日系人にはそんな蔑視はなくなりつつある。これもアメリカ的、といえばそれまでだが、彼が小型トラックで自分の農場にゆくときは、必ずショットガンをこれ見よがしに窓に立てていた。おとなしい運転者と見られたら乱暴者になめられて、危険を感じるときがあるためで、ショットガンを見た乱暴者はうかつに乱暴な運転ができず、効果的だという。そういえば他の車でもたびたび見かけた。

 アメリカ的なものはたくさんあり、興味深い。飛行機をふんだんに使っている大規模農業。サンノセでは、あるときコヨ−テが現れた。町では、高級車の間を馬に乗って通行している人がいた。トレーラーハウスは一戸建住宅やマンションの数を上回るのではないか、と思われるほど普及していた。サンノセ近郊のシリコンバレーで見られるように、アメリカン・ドリームもまだまだ健在である。
 さらに、アメリカ精神の真髄である「WHY NOT!!」(いいじゃないの、やってみようぜ」というチャレンジ精神や積極的な生き方は、気に入った。  1962年、単独・ヨットで太平洋を初横断した堀江謙一青年は、ビザをもっていなかったが、アメリカ人関係者は彼の価値ある行動を優先させ、これを不問とした。登山家の故植村直己さんも、不法就労中に移民官につかまり、国外追放間際に理解あるアメリカ人に助けられ、その後の偉業をなしとげることにつながっていった。不法就労メキシコ人は星の数ほどおり、故郷への年間送金額は100億ドルにもなるというが、懐が深いというか、これらはすでに社会に折込済みというか、この辺のバランス感覚はアメリカ文化のよさだろう。

 キーさんには雇っていただいたお礼を、奥さんのハツコさんには、中南米に出発する際にいただいた品について、改めてお礼を申し上げます。特に、ハツコさんの福神漬の缶詰は貴重品だったから、よほどのときでなければ食べない決意で保存していた。そして、3年半後、アフリカでマラリアにかかり、暑さ・発熱・だるさ・下痢・食欲減退のときに、これが絶大な効果を発揮し、体力維持と病気克服に多大な貢献をしたのである。食欲不振時の食物が、メイド・イン・ジャパンの身体であることを証明したわけである。

17.広さ約4万平方メートルのカーネーション栽培用の温室。この辺の一家の規模では、平均的である。私は、この建築を最初から完成するまでやった。建屋の基礎の穴掘りは、炎天下で重労働だった。アメリカ人のような、足腰や腕力が強い人用につくられている縦型のシャベルの2本の棒を両手で握り、いったん5〜10kgの道具を上にもち上げてから、勢いをつけて大地につきさし、2枚のシャベルにはさんだ土を落とさないように両手を力いっぱい広げ、かがめた腰を伸ばして腕力で上げるのである。直径50cm、深さ1m、これを320も掘り、さすがに腰にきた。誕生日は祝う気力もなく、食事をつくって、たべて、後片付けをすると、すぐ睡魔に襲われた。1日10時間もハンマーで釘を打ちつづけた。すると、翌朝は手が腫れあがってハンマーが握れず、毎朝手を水道水で冷やして、腫れを鎮めてからハンマーを握った。屋根での高所作業は、ドリルの歯が木材の節にあたったりして、力の方向が急に乱れると、身体のバランスが崩れ、墜落するので大変危険だった。これに比べて、低地の作業がどれだけありがたいか、体験を通して痛切に認識した。それもこれも、うらむどころか、リースの機械を使わず、素人の私を使ってくれたことに感謝しなければならないのである。

18.キャピタル・カラー・ラボのデービット・オオツキさん。学生時代に渡米し、当初は車庫にベニヤ板で暗室をつくってフイルムの現像を始め、その後は、NASAやGE等の一流企業からも、たくさん注文がくるほど立派な中堅写真現像所にした。このコダック現像所の仕事は幸運にも、私にとっては後に世界で稼ぐことができた、まるで”魔法のような技術”であり、この不思議なめぐり合わせに、今でも神妙な感動を禁じ得ない。そして、「いつでも帰ってきてくれ」という言葉には、どれだけ強い支えになり、精神的に救われたか分からない。

19.スペインでの追突跡、サハラでのエンジン落下による不具合、ノルウェーでの衝突跡等を修理した。サリナス・グリーン・ハウス(温室名)の仲間である木下・塚本・永田・高橋さん、特にヨネダ・ミノルさんの温かい支援を受け、車の前にガード用鉄パイプ、ヘドライト防護用金網、車内にはキャンバスベッド以外何もなかったので木製の食料整理箱、大小物整理棚、寒暑防止用としてベッド脇の壁には発泡スチロール板を張ってシーツで覆い、ベッドの鉄パイプは太いものに交換した。ダンボール箱だった工具箱は、友人ジョンが金属製箱を寄付してくれた。他に、ワイパー不具合とエンジンの亀裂があったが、工賃が高いアメリカでは修理せず、安価な中南米で修理しようと、これは先送りした。中南米出発時には約100種類の部品も購入した。

 最後に、車の後部に「WORLD OR BUST」(世界一周か、野にくたばるか)、スペイン語では「EN PAZ, AL REDEDOR DEL MUNDO」(平和のもとで世界一周)と書いた。外見上、いままでは星の数ほどある貨物車にすぎず、それも後部がつぶれ、見向きもされなかったオンボロ車である。それが、やっと本格的な世界冒険旅行用自動車になったのである。いままでは、車を見て誰もアプローチしてこなかったが、この後は各国で地元の方から声をかけられる等、完全に変身した。

20.移民官にいつ襲われ、国外追放になるか気が気でなかった仕事を離れては、楽しかった。
■宿泊地が畑のなかのトレーラーハウスだったときは、周囲からアスパラガス、ブロッコリ、キャベツ、レタス、タマネギ等を失敬し食費
を節約した。

■釣は、近くの川・池・湖ではクラッピー、ブルーギル、バスを、ヨセミテ公園では樹齢数千年という「生きた化石=レッド・ウッド=ア
メリカ杉」の森でニジマスを釣った。アメリカは自然を厳しく保  護しているので、規則はすみずみにまで及んでいるが、釣シーズンに
はいつでも釣れた。ある日、近くのモントレー港に、海の色が白くなるほどスルメイカの大群が押し寄せ、ギャング針を10本つけた釣糸
をたらすと、13匹位かかってきた。ただ、釣った大量のイカは洗濯ロープに干したのだが、鳥や猫にほとんどを盗まれてしまった。多く
の時間をかけて臭い中でさばいたのに、食べることができたのはわずか1〜2匹のみだった。

■サンノセ・ハイスクールには、無料の夜間語学教室が開かれており、各国人と楽しく学べた。仕事で休むと、先生が心配して家庭訪問を
してくれるほど熱意があった。

■日系人社会にはいろいろなサークルがあって、私は「川柳の会」に入り、日本語と英語を併記した川柳を勉強できた。

■カリフォルニア州は車検がないから、1959年型の大型乗用車で古きアメリカ気分を味わい、千個の干し柿づくり、カジノや競馬でギ
ャンブル、ガールフレンドもできたのだが---。

21.Meeker夫妻    22.米国の運転免許証

21.私には、アメリカに知人がいなかったので、ベルギーの友人マイケルからもらった住所のみが頼りだった。働くならより、稼げそうなニューヨーク等の方がよかったかも知れないが、知人がいない不安があり、そのためシカゴから、はるばる4000kmもドライブしてきたのである。あらかじめ手紙で了解は得ていたが---、財布は底をつき、薄汚れた服装と身体で、不安な気持ちでドアーをノックすると---、ジョンとセツコさん(日系)は、初対面にもかかわらず、やさしく受け入れてくれた。それどころか、いきなり「ビザが切れるまで、我が家にいてもいいよ」といってくれたのである。この言葉には、どれだけ安心したかわからない。もちろん、他人への迷惑は最小限にしなければならないから、実際にはそれほどお邪魔はしなかったが、百人力とはこのことで、大変ありがたかった。

 彼らのスケールの大きさ、ふところの深さには度肝をぬかれた。翌日は、家の鍵を私に預けてでかけてしまうほど、最初から信用してくれたし、初対面の他人を信用しきれるのである。職業は高校の先生だが、思春期で扱いにくい生徒を、よく自宅に招いては細かく面倒を見ていた。道端でコカコーラの空き瓶を見つけては「5セントいただき」といって拾ってくる環境保護・節約家。野菜は自宅の小さな庭で作り、玄米等を食べる万事が健康的な志向の生活姿勢である。その後も適切な判断でアドバイスを受け、その人間性から、今では”生涯の師”と仰いでいる。

22.通常、どの国も国際免許証を発行するには、その国の免許証が必要である。そのため、カリフォルニア州のは筆記・実技ともに即日で、3ドルでとり、期限が切れた国際免許証を新たにとった。しかも、カリフォルニア州の免許証は、海外からも延長できるのである。実際このおかげで、各国で期限が切れた国際免許証を更新でき、ドライブが継続できたのだから、アルバイトともどもアメリカに感謝しなければならないわけである。それに比べて、海外からいまだに更新できない日本は、”鎖国時代が解けない規制国家”としかいいようがない。

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