中国の北朝鮮国境地帯を2600kmツーリング@

中国東北部旧満州国の遼寧(りょうねい)省、吉林(きつりん)省の旅

1.ツーリングルート   2.瀋陽市出発     3.鴨緑江断橋      4.交通事故       5.長白山登頂

1.遼寧(りょうねい)省瀋陽(しんよう)市→丹東(たんとう)市→吉林省通化(つうか)市→長白山(朝鮮名は白頭山)→琿春(こんしゅん)市→敦化(とんか)市→長春市→遼寧省瀋陽市。

2.オートバイ7台と伴走のミニバス1台で計19名(日本人10名、中国人全行程随行5名、中国人現地ガイド4名)が、中国東北部と北朝鮮国境地帯を初のツーリングに出発。

3.中国と北朝鮮の国境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)に、旧満州国時代につくられた鴨緑江断橋と鴨緑江大橋がかかる。対岸は北朝鮮の新義州(しんじゅ)市。

4.小雨にぬれた山道の下り急カーブで1台が転倒し、後続車2台も転倒。路上にはトウモロコシ粒が散乱していたので、さらに転倒しやすくなっていた。ガードレールはなく、間一髪で3人ともオートバイと共に谷底へ転落するところだった。

5.朝鮮名は白頭山で満州族、朝鮮族等の聖地として今も崇められている自然保護区。カルデラ湖の天池には得体の知れぬ怪獣がいるというが?

6.長白瀑布        7.北朝鮮女性と     8.朝食が113種類!  9.完走          10.生家あたりで

6.天池の湖水は長白瀑布となって流れだし、鴨緑江(おうりょくこう)となって802km下流の黄海 (こうかい)にそそぐ。他は図們江(朝鮮名は豆満江)、第二松花江。

7.長白山のふもとのホテルで、北朝鮮から夫婦で3年間の出稼ぎにきていた人と。ホテルの経営者は在日 朝鮮人。向って右端はこのツーリングを企画・実行してくれた藤間剛さん(潟cアープランナーズ・オーバーシーズ社長)、両手に花は私。

8.長春市の中日友好会館(ホテル)の朝食は料理、饅頭、餃子、スープ等の種類が超豪華。10月1日は国慶節(中華人民共和国の建国記念日)だからかな?

9.無事2600kmを完走し、満州事変の発端となった柳条湖事件の地へ。中国ではこれを9.18事変といい、巨大な近代建築の博物館で日中戦争前中後の様子を見学。胸が痛くなる。背景の記念碑は何に見えるかな。卓上カレンダーが、1931.9.18の出来事を記録を示している。向って左から賀曽利尚、新保一晃、倉谷英満、荻野洋一、中蔦義秀、賀曽利隆、大内三郎、古山里美、古山隆行、通訳の呂徳成。

10.かつて両親が経営していた鉄工所兼住居跡の地区は一変して、高層マンションに変わっていた。記念に、近くのパン屋さんの奥さんと。

期 間

・2003.9.25(木)〜10.4(土)の10日間

走行ルート

 9/25 遼寧省瀋陽市(旧満州国奉天市)内をマイクロバスで見学

 9/26 瀋陽市→瀋丹高速道路→本渓市郊外の本渓水洞(鍾乳洞)→丹東市(311km)

 9/27 丹東市→国道201→寛甸満族自治県→桓仁満族自治県→吉林省通化→通化市(356km)

 9/28 通化市→白山市→江源→撫松→北崗→露水河→二道白河→和平営子→長白(342km)

 9/29 長白山→和平営子→二道白河→国道201→東清→万宝→新合→安図→国道302→延吉市→図們市
     の図們江(豆満江)に架かる北朝鮮との国境橋の図們大橋→琿春市(403km)

 9/30 琿春市→敬信→防川→ロシア・北朝鮮・中国との三国国境→図們市→延吉市→国道302→安図→
     敦化市(399Km)

 10/1 敦化市→蛟河市→国道302→松花湖・豊満ダム→吉林市→国道302→長春市(405km)

 10/2 長春市→国道102→公主嶺市→四平市→瀋哈高速道路→瀋陽市(355km)

 10/3 瀋陽市→マイクロバスで高速道路→撫順市→瀋陽市

 10/4 瀋陽市→成田空港

参加者

・合計19名。

・オートバイ7名:賀曽利隆(56歳、世界103万kmツーリングで130か国訪問。ホームページへ
          賀曽利尚(24歳、国内全県走破中)
          古山隆行(37歳、サハリン縦断他)
          古山里美(女性、サハリン縦断他。ホームページへ
          中蔦義秀(30歳、北朝鮮訪問他)
          新保一晃(35歳、シベリア〜ヨーロッ パ横断他)
          倉谷英満(43歳、ハーレイダビットソンで国内をツーリング)

・伴走車に3名:大内三郎(61歳、単独で6大陸110か国訪問、99か国27万キロをVWバンでドライブ。ギネス記録
                     保持者)
          荻野洋一(60歳、世界の全独立国と統治領を主にヒッチハイクで243か国訪問。ギネス新記録
                      目前)
           藤間 剛(56歳、ツアーコンダクターで92か国訪問。潟cアープランナーズ・オーバーシーズ社長。
                     03-3310-4700)

・中国人同乗 :王 麗華(ツアーコンダクター、瀋陽市中国旅行社総經理、女性)
 スタッフ5名  呂 徳成(通訳兼ガイド、瀋陽市中国旅行社)
          墨  威(運転手、瀋陽市中国旅行社)
          陳  鵬(メカニック、済南軽騎鈴木摩耗車公司=スズキ鰍ニの合弁会社)
          成 海泙(広報係、済南軽騎鈴木摩耗車公司=スズキ鰍ニの合弁会社)

・中国人通訳兼:曽 慶凱(遼寧省丹東市〜吉林省通化市)
 地方案内4名 張 哲姫(吉林省白河〜吉林省延吉市、女性)
          周 建韋(吉林省敦化市〜吉林省吉林市)
          李 延東(吉林省長春市〜遼寧省瀋陽市)
 

目 的

・オートバイ7台で2600kmツーリング(1日平均370km走行)とマイクロバスの伴走(伴走者、荷物、部品、非常時の運搬役他)。外国人のオートバイによる東北地方(旧満州国)ツーリングは初めて。オートバイは、山東省済南市にあるスズキの現地合弁会社「済南軽騎鈴木摩耗車公司」(以下、済南スズキ)が無料で新車を提供してくれた。
 1988年には萩野谷芳一さん等7名が上海〜パキスタン国境までツーリングし、そのときも困難な許可をとったのは王さん、全行程のガイドは現遼寧中遼国際旅行社有限公司の副社長・李華濱さん。萩野谷さんは敦煌手前でトラックと正面衝突し死亡し、残りのメンバーは所期の目的を達成した。

中華人民共和国

・人口12億6千万人は日本の10倍。台湾抜きで面積960万kuは日本の26倍。時差は日本より1時間遅れで中国全土は同じ。西端の町カシュガル等では朝夕の明るさと時間に違和感があるという。

・直轄市4(北京、天津、上海、重慶)、省23、自冶区5(内蒙古自冶区、広西壮「チワン」族自冶区、西藏チベット族自冶区、寧夏回族自冶区、新疆維吾ル「ウイグル」族自冶区)、特別行政区2(香港、澳門=マカオ)、以下は市、地区、自冶州、盟の順で小さな行政区域になる。

・国旗の赤背景は革命・成功、星の黄色は光明、大星は共産党、小星は労働者、農民、中産階級者、民族資本家。国歌は義勇軍行進曲。

・56民族。漢族92%、その他8%。朝鮮族200万人、満州族100万人。1人っ子政策は漢族のみ。漢族と他民族の夫婦も同じ。漢族以外は規制なし。(人類は、現在の63億人から2050年に90億人、以後は平行線をたどるというが、中国の政策の効果は大きい)

・宗教活動は制約あり。仏教徒を1回見ただけ。吉林市と長春市の間に仏陀が横になっているように見える山があり、寝仏という景勝地になっている。吉林市には天主教会の館がある。

・言語は漢語の北方方言を主体にした普通話で、英語や日本語は通じにくい。

・1ドル8.5元で実態は米ドルにリンクした固定相場。1元約14円で新旧札あり。両替はホテルや銀行で、レートはどこも同じ。日本では1箇所でしか中国元が買えず、出国時の持出しは禁止。余った元は外国貨幣に両替可。大都市では日本円、クレジットカード使用可。スーパーマーケット等は正札通りだが、土産物屋等は値引き交渉が当たり前。闇両替屋と遭遇せず。

・電圧は220v50Hzで主なホテルでは100vの丸棒差込口もある。

・放送形式はPAL方式で日本のNTSC方式と違うので、DVDやビデオ購入時は要注意。

・15日間はビザ不要だが入国後の延長は不可能。入国時はENTRY CARDと健康状態申告書を、出国時はDEPARTURE CARDと健康状態申告書を提出。注射証明不要。

・緊急電話は警察110、消防119、救急医療センター120、交通事故122、市内電話番号案内114。

・国際電話は、中国から東京は国際電話会社(例00)→日本の国番号81→東京は0を省いて3→4桁番号→4桁番号。日本から中国へは国番号が86になり同様に市外局番の0を省いてかける。一流ホテルは部屋から可。

・外国人が利用できるレンタカーなし。国際運転免許証も国際条約未加入のため使用できない。国際条約未加入のため観光や通過用に自家用車を一時的に持ちこむことができず、カルネも使用できず。大都市ではオートバイの使用許可をだしていない。大都市ではオートバイの新車を買ってもナンバープレートを取得できない。オートバイの運転免許は居住地に限られており、都市から他都市へは走行できない。オートバイは、都市部での幹線道路は走行禁止で、都市間の高速道路(高速公路)も走行禁止。地方の町間にある主要道路はすべて有料でマイクロバスは400円位、オートバイは無料。有料道路の料金徴収所は町毎にあって多いが、どこにも検問専用所はなし。
 車は右側通行。乗用車の速度制限は120km/hだが、オートバイの速度制限は不明。高速道路の作り方は危険。休憩所への出入口は助走区間が短い。標識は少ない。工事中や事故箇所はどこでも直前にならないと標識がなく状況がわからない。日本の高速道路走行感覚は通用しない。交通の取り締まりは見たことがなく、事故処理以外はほとんど行われていないのが実態。

・度量衡は日本と同じでm=米、km=千米=公里=里程、g=克、kg=公斤、1リットル=升。食べ物の単位で用いられる500g=1斤。車の部品のボルトサイズはミリ単位。

・基本的にチップ不要だが、実態は状況次第で必要。水は危険でミネラル水が無難。郵便局は緑色。テレビでの喫煙風景は放映禁止。賓館、飯店、酒店はホテルで、政府が設備やサービス等で格付した星の数は実態と合っていた。ただし、食事はどこも5つ星といえる豪華美味。招待所は旅館。

習字の練習は水で、歩道に                  食堂の入口で魚料理のデモンストレーション

9/25(木)

・この旅は出発日から帰国日まで、すべて晴。藤間さんが「絶対、雨は降らない」と予測したが、その通りの結果となった。さすがこの地を再三訪れている名コンダクター。夕方の長白山(北朝鮮は白頭山)での雷雨と、ドライブ途中のにわか小雨のみ。日中温度は15〜25度で空気は乾燥していて快適だった。

・成田空港で3千万円の傷害保険を約8千円でかける。コンダクターの藤間さんも、メンバーに同額をかけたという。早速、空港で藤間さんがスーツケースの置き引きに遭い、衣類等を盗まれた。30分後、紛失場所近くで放置されたスーツケースを誰かが発見し、空港警備員に連絡→スーツケースの名札の電話番号に電話→藤間夫人が自宅で受信→空港の藤間さんの携帯電話に連絡があり落着。貴重品は身につけていたが---、早々と皆の参考になり謝々。

・成田空港の最終待合室では、3人の中国人らしき青年男女が手錠をはめられ(布で覆っていたが)、青ざめて椅子に座っていた。周囲には制服を着た男女の日本人入出国係官が監視していた。滞在期限オーバーなのか、何かの犯罪者なのか、同じ飛行機で強制送還されるのだろう。(2003年度は45、910人が国外追放。内、不法入国者8、000人余)自由なわが身と比較して暗い気持になった。私自身も、外国ではもぐりで働いた経験があるから。
 じつは冒険家の故植村直己さんも、米国では不法就労中に捕まり、日本に強制送還される判決を受けた。たまたま植村さんの山登りに対する情熱や実績に打たれ理解を示してくれた役人や、親切な日系米人の助けで危機を脱出できたのである。私も、英国では職探しに1日平均40軒のレストラン等のドアをたたいた経験があるから、多少のことではへこたれないでほしいと思った。日本、オーストラリア、ドイツ、カナダ等をはじめ、働きながら旅するワーキングホリデーの制度を取り入れて、若者をサポートしている国は増えている。世界の若者は、アルバイト程度なら互いに各国で無許可で働いているのが実情である。(重犯罪は別だが)

・中国北方航空のCZ628便13:30発。昼食はないと思い、事前に空港のキオスクで摂ったら、機内で食事とビールもでた。早くも失敗!

・飛行機は西に飛び、鳥取あたりから北上。北朝鮮東岸の元山の北方から西北に向い、首都ピョンヤンの北方を通過して中国の瀋陽桃仙国際空港へ。時差1時間遅れで15:10着。北朝鮮の田舎は砂利道で舗装道がなく、車も村の家数も少ない。屋根色は茶褐色一色で煙も見えず活気がない。ハゲ山ばかり。

・瀋陽国際空港には欧米人、ロシア人は皆無で東洋人のみ。SARSの検査で顔色をサーモグラフィ・カメラで撮られる。気温は18℃で快適、緯度は函館と同じ。1月の平均最高気温は−6℃、平均最低気温は−18℃、7月の平均最高気温は30℃、平均最低気温は20℃で、東京と比較して11〜3月が相当寒いだけ。

・瀋陽市は7200年の歴史がある。29の部族が720万人、中心部のみでは500万人。町は近代的大都市で電線は地中化されて電柱はなく、7〜8階の高層ビル多し。寒さのため、多くの窓は2重窓。郊外にも高層ビルが林立中。高層建築現場の足場は竹、丸太が多し。作業者の安全帽は例外的に見られるだけ。昔は、8階以上でもエレベーターはなかったが、今は8階以上を義務化。防寒用2重窓多し。満州時代のすすけたレンガ造り平屋はどんどん解体中で、郊外や一部地域に残るのみ。各地の道路工事には、監視人が見守るなかで、頭を坊主にした囚人が囚人服にオレンジ色のチョッキを着て従事し、安全帽も手袋もなし。

・道幅は広く、都市では片側5車線も珍しくない。地方の道は片側1車線の舗装道。歩道は5〜20mとこれまた広い。商店員の朝の体操場になっている所もある。歩道での鉄工所等、あらゆる家内製手工業が歩道で展開されている。露天商、自由市場、自動車洗い、もの干し等、昔ながらの風情も活発。淡水魚を歩道一杯にぶちまけて売っていた。トウモロコシ(1度に10g位をポップコーンに)や栗(1度に200g位を焼き栗に)を丸い鉄壷に入れてフタをし、下から石炭や薪を燃やしながら鉄壷を回転させて焼いている。職人は顔が真っ黒にすすけていて昔の面影がしのばれる。ある所では、これらの写真撮影を拒絶されたが、いつもの事前準備をしなかったのを反省した。写真撮影は、まずかれらと世間話等をして緊張をほぐす等、良好な人間関係をつくる前段が必要だったのに、手抜きしていた。

・給油所は各地にあり、オクタン価まで表示されていてガソリン1リットル42円、軽油は38円。

・公園では太極拳やダンスをやっている。夜は外灯が少なく暗い。道、建物、人々の頭髪と服装は清潔である。太りすぎはほとんどいない。米国は肥満、太りすぎ、その他が各3分1で、肥満度は「豊かさ×自己管理力」のバロメーターかな。定期的に回収されるゴミ箱は要所要所にあり蝿、蚊、カラス、スズメ、ハト等は見当たらない。街路樹も少なくない。ただし、田舎ではプラスチック等のごみが山野に捨て放題になっており、やがて社会問題になるだろう。

・スローガン掲示と広告はどの地方でも多し。広告は資本主義国家と遜色なしで派手。スローガンの古いものは「少生伏生幸福一生」=「子供は少なく生んで、幸福な一生を」。かつて見られた「自力更生」「独立自尊」といったものはなし。毛沢東からケ小平の時代に地方まで変化しているように見える。

・服装は日本と変わらず。どんな田舎でも若い女性のジーパン姿が見られ、多くはかっこいい。伝統の中国服(清朝を支配していた満州族の民族衣装)はレストランのウエイトレス等を除いてまったく見られない。

・緑茶、紅茶、ウーロン茶等を天秤でかついで、ゆらゆらと売り歩く姿は往時をしのばせる。これ以外の茶には黄茶、白茶、青茶、黒茶がある。

・人口のわりには自動車は少ないが、都心では朝夕の交通渋滞地区もあり、瀋陽では地下鉄工事も開始された。私有地の地下を避けて走らなければならない日本と違い、駅間を直線で走れるので安くて早くできるだろう。
 三輪車、荷馬車、牛車、ロバ車、自転車・オートバイ・トラクター等で牽引又は押すリヤカー、力車、自転車多し。信号のない交差点が多い。信号が不要なロータリーも多い。大きな交差点の信号付近には信号が次に変わるまでの残りの時間がデジタルで赤く表示されている所が多く、大変参考になる。交通ルールを無視して各自が入り乱れて追越しや横断をしているが、スムースで、交通事故は2度しか見かけなかった。中国の年間交通事故死亡者は8万人。日本の10倍の人口と?倍の車両数で多いか少ないか。高速道路でのオートバイ走行禁止は、交通事故多発のためらしい。開発途上国ではよく見かける光景だが、トラックの積荷はどれも過積載と思われるほど危険だった。

・リヤカーに解体した豚肉を乗せて売り歩く姿をたびたび目撃した。ホコリなんか関係なし。牛・馬・羊・犬肉は見かけなかった。

・物価は安い。中国の為替政策によるものだが、1元約14円。目安になるので以下に記す。生栗1kg90円。ポップコーン1袋14円。量り売り醤油1リットル14円。一流ホテルの宿泊費は2500〜2.5万円。年金生活者は月3千円で1日の食費は40円。タクシー運転手の月収1〜3万円で学校の先生より上。個人タクシーでは7万円も稼いで医者より高収入の人がいる。石炭1トン1540円(国際価格3300円)。路上では1本1円の長ネギが市場では8円。リンゴとナシの味がする林檎梨1kg21円。ガソリン1リットル42円(2600kmツーリングの燃料代は個人負担で5000円だった)。軽油は1リットル38円。オートバイのパンク修理70円。

・小麦、大麦等は大産地だが、一般的には蒸かして饅頭(マントー)にして食べる。パンもあるが、一般的ではない。欧米はほとんどがパンで、蒸かした饅頭はあまり見聞しない。何がそうさせるのか。習慣か。だが、南米のコロンビアでは従来豆を主食にしていたが、米のほうが準備に手間がいらず、現在はどんどん米が主食になっている。つまり習慣も便利さ等で変わっているのに---。

・瀋陽市中国旅行社と瀋陽国際航空服務公司の王副総経理(副社長)は、恰幅のよい知的な中年女性で全行程を共にした。今回の旅では特別に、人民解放軍と公安関係に手配をしてくれ、オートバイの中国版運転免許証の発行に尽力してくれた。本来、高速道路のオートバイ走行は禁止なのにこれを許可すべく各地に特別に手配してくれ、おかげでVIPのように各地で公安車の先導が付いた。通訳兼ガイドの呂さド科で学びペラペラ。観光地の歴史のみならず、我々のあらゆる質問に満足のゆく説明で助かった。

・1651年に完成した北陵公園は、清朝の太宗ホンタイジと孝端文皇后爾済吉特氏の陵墓で、正式名は昭陵。最北部の半円型墳墓には両者が埋葬されている。表面はコンクリート覆い。平日の午後4時、清潔な公園に人影は少ない。カメラ所持者も少ない。観光地で見かける外国人は韓国人か日本人のみで、こには韓国人観光客がいた。質素で清潔な老夫婦が手をつないで散歩しており、世の中の落ち着き具合を物語っていた。1969〜70年の文化大革命時等に見られた草色の人民服はどんな田舎でも皆無だった。人民帽はときおり見られた。大きなトンボの形をしたタコが空に浮かび、珍しかった。

・1629年創建の東陵は、清朝の太祖ヌルハチ(満州族)と孝慈武皇后葉赫那喇氏の陵墓で正式名は福陵。

・町には日本の吉野屋牛丼店、マクドナルドハンバーガー店、ケンタッキーフライドチキン店等がある。新宿にも支店がある170年の老舗で有名な老辺餃子館で夕食。食卓には丸い回転式の台(日本人発明)が中央にある日本式。食器はこの旅行中どこでも器が小さくて数は少なかったが、要求すればいくらでもくれた。餃子の種類が多いのには驚いたが、ウエイトレスは歓迎の挨拶後、次々と異なった餃子を皿に載せてくるので、味見が忙しい。藤間さんが密かに手配していたケーキで、賀曽利尚さんの24歳誕生日祝。

・時代広場酒店(英語でいえばタイムズ・スクウェアー・ホテル)は4つ星で、部屋のテレビでは日本のNHK海外英語放送とロシアの放送もあり。220vのコンセントは110vの差込口もあり、日本のデジカメ充電器(220→110vの変圧器付)に丸棒2本がついた欧米用C型ソケットは差込可だった。便所はどのホテルでも腰掛式だったが、どこにも暖房便座もウォシュレット装置もなし。安全カミソリもヘアードライヤーもなし。ホテル以外での公衆便所は昔ながらの臭いのが多い。トイレットペーパーなし。拭いた紙は備え付けの籠にいれる。大便時の個室は入口扉がなく、壁は1m位で低く、しゃがんでいるときは隣が見えないが、立ち上げれば丸見えの所もある。女性側も同じとか。

・中国の著名な政治家の筆書きが一流のホテル、観光地、国境等で散見される。前主席の江澤民。文化大革命時は頭に白い円錐帽をかぶせられて公衆の面前で走資主義者として自己反省を強要され、一度は政治生命を絶たれたかに見えたが、後に毛沢東の妻ら4人組が駆逐されてから奇跡的に政界に再登場し「豊になれる者から豊になれ!」といって今日の大飛躍のきっかけを創ったケ小平。広場やロータリーで散見された立像は、毛沢東とケ小平だった。現在は「人間万事、塞翁が馬」ならぬ「人間万事、ケ小平」か。ケ小平と同様に、奇跡の逆転勝利を収めた南アフリカのマンデラ元首相等を見ると、人間、最後まで諦めるな!と勇気づけられる。

・ホテルの一画にあるビジネスセンターと称する部屋から、米国の友人にEメールを送った。ソフトは、Eメールのソフトの一つであるOutlook Expressではなかった。日本の妻への電話は部屋から2分48秒間で400円。長白山の麓の国際観光飯店も同じだった。

・瀋陽市の4つ星の時代広場酒店泊

9/26(金)

・この旅の朝食はどのホテルもバイキングスタイルで、昼夜は注文料理。内容は豪華美味で、味は薄味。日本では、ニンニクの茎はそのまま料理するが、立てに裂いて(切って)あるときもあり、さすがは本家と見直した。キムチはどこのホテルでもでた。生ものと漬物はまったくでなかった。一般家庭ではほとんどが中料理だけで、日本のように外国料理をふんだんには取り入れていないとか。生活レベルが上がったら、外国料理が増えるのかな。通訳宅を含め、一般家庭でも調味料に味の素等をふんだんに使っているという。オートバイライダーは体力をつかうので、食欲は旺盛だった。

・1625年創建の瀋陽故宮(兼博物館)は1636年に完成。満州族の王朝である清朝建国の祖ヌルハチ(1559〜1626)と太祖(王朝の始祖)ホンタイジ(1529〜1643)とが住んだ。順治帝が北京に入城た1644年迄はここが王宮。北京では、支配階級の満州族は多数民族の漢族に同化政策をとり、服装は満州族のを強制した。かつて王は、竜をシンボルとして一体化していたので館の入口、柱等に数多く見られる。(属地であった沖縄の首里城でも同じ)皇帝が式典を行う大正殿の南側の中央道両側には、約8万人の兵士を抱える各軍閥の謁見兼控館が10亭配置されている。総勢80万人もの軍勢がいた勘定になる。

・張学良の住居跡を見学。ロシアは、かつて弱体化した清国から領土を租借して北のハルピンから南の大連、旅順港まで東清鉄道を建設した。日露戦争後、日本はこの鉄道と鉄道付属地の治外法権化を引き継いだ。その後、父の張作霖(ちょうさくりん)は東北部の軍閥で、日本に敵対するので関東軍(日本陸軍の関東州および満州にあった軍の総称)に爆死された。(1928.6.4皇姑屯事件)張作霖所有の「京奉鉄道」が南満州鉄道の上を通過している地点の橋脚を、張作霖が乗った列車と共に爆破した地点が皇姑屯(こことん)で、碑が建立されている。張学良は息子で、後に日本と戦った蒋介石の副司令官になった。

・かつて、大日本帝国の領土には日本以外に朝鮮、関東州の旅順や大連周辺の遼東半島、台湾、樺太、南洋のパラオやサイパン等があった。以下、欧米列強の中国等への進出はカッコ内に表示。

 (1689年、ロシアは清朝と争い、国境を定めたネルチンスク条約を締結)
 (1727年、ロシアは清朝と争い、国境を定めたキャフタ条約を締結)
 (1840年、イギリスは清朝にアヘン戦争をしかけ、後に香港の租借権を得る)
 (1858年、ロシアは清朝と争い、国境を定めた愛琿「あいぐん」条約を締結)
 (1858年、イギリスはインドを直轄地として植民地化)
 (1860年、ロシアは清朝と争い、国境を定めた北京条約を締結。中国は、ウラジオストック、ナホトカ等の地を
       含め、全国境地帯を併せて日本の面積の約3倍にもなる100万kuをロシアに取られたという)
  1868年、沖縄(琉球)は17世紀初頭、九州の島津藩に征服された。後、明治維新時は清朝と両属状態にあっ
       たが、日本は全国の廃藩置県に伴って沖縄県にして正式に領有した。
  1895年、日清戦争後、下関条約で朝鮮の独立、台湾・遼東半島・澎湖諸島を日本に割譲。
 (1898年、ロシアは大連の租借に成功)
 (1898年、アメリカはハワイ王国→共和国を併合)
  1906年、日露戦争後、ポーツマス条約で南樺太(サハリン)が日本の領土になる。同時に中国東北部の関東州
       はロシアが清朝から有していた租借権を、日本に引き継いだ。日本は満鉄の付属地制度を徹底的に
       拡大解釈して旧市街や沿線主要都市を付属地として開発した。
       これに異を唱えたのが当時の領主・軍閥である張作霖だったので、日本は一気に武力で解決しようと
       して、北京から列車で帰宅してきた彼を鉄道の橋脚・列車ともども爆殺した。(1928.6.4の皇姑屯事件)
        1931.9.18のpm10:00には、自ら満鉄を爆破して「柳条湖(溝)事件」を捏造し、その責任を中国のせい
       にして、即日、中国東北軍の各部署を攻撃したのが満州事変である。結局、日本政府は「政府の許可
       なく現地軍が独断で起こしたことは遺憾。だが、起きたことは元に戻せない」と真相を隠蔽してこれを
       追認し、権益維持・拡大を主張する軍部に迎合・便乗し戦争の泥沼、破局に進む。(2003年、NHKの
       歴史発見「その時、歴史が動いた」で放送)
  1910年、韓国併合に関する条約で、朝鮮は台湾のように日本の総督府方式統治下になる。
  1919年、グアムを除く南洋はドイツ領だったが、第一次世界大戦後にベルサイユ条約で委任統治領として日本
       が譲り受け、1933年に国際連盟脱退後は日本の領土にした。
  1928年、瀋陽市郊外の皇姑屯(こことん)事件。
  1931年、瀋陽市郊外の柳条湖(溝)事件。当時は細長い湖があった地の、満州事変勃発の事件。
 (1931年、インドは無抵抗・不服従・非協力主義で宗主国の英国に勝利し、後の独立への礎をきずく)
  1932年、満州国建国。清の宣統帝だった溥儀を執政として遼寧・吉林・黒龍江省と内蒙古自冶区に日本が建
       国。
  1937年、北京市郊外の蘆溝橋事件を契機に日中戦争開始(7/7夜、関東軍は北京南郊の蘆溝河上の橋と周辺
       の集落を攻撃=シナ事変=日華事変=日支事変勃発)。
  1939年、ノモンハン事件。日本・満州軍がソ連・モンゴル軍と国境で交戦。日本側約8000人戦死は極秘扱い。
  1941年、太平洋戦争開始。米英中等は日本の海外領土からの撤退を要求し、米国は石油の対日輸出を禁止し
       たので、このままでは国家が衰退すると危機感を募らせ、石油の備蓄があるときに開戦すべしと突入。

・出発式は済南スズキの瀋陽代理店前の赤じゅうたんが敷かれた歩道で、副社長と店長から歓迎挨拶。賀曽利隆さんからオートバイ無料提供への御礼。日本人10名全員への花束贈呈。記念撮影。オートバイは中国で組み立てたばかりの125ccの新車「鈴木王GS125」。部品は車体を始め60%が日本製で、残りは中国製。
 今回は中国製オートバイの耐久試験ということでナンバープレートがとれた。この地区はオートバイのみの専売所で数十店舗が国産と世界の商品を販売している。オートバイには後部に高さ1m超の宣伝用のノボリ旗を立てた。当初は走行に邪魔だと思われたが、結果的には、街中で渋滞時の居場所確認用目印になり大変よかった。がただ竹竿は再三折れ、ノボリの補給を各地のスズキディーラーでしなければならなかった。地方のロータリー式交差点で、オートバイ組が先行の伴走車を見失って別方向に数キロ向ったこと1回。済南スズキは、背中に「Team SUZUKI」とネームを入れた青いジャンパーを特別につくり、宣伝用に全員に着せた。王さんから、このツーリングのために特別に発行された有効期間や有効地域が限定された中国製運転免許証を7人のライダーに渡した。「中国製オートバイの耐久試験・検証のため、プロの日本人ライダーが日本からくるため」と称して取得。これには、あらかじめ旅券・運転免許証・国際運転免許証の写し、写真8枚を送付し、準備していた。遼寧省の高速道路の走行許可は高速道路管理局から特別通行許可証をもらい、通訳が各地の料金所で処理した。なにせ高速道路走行は禁止なので、料金の設定自体がないのである。

・昼食はたいてい海水や淡水魚の水槽がある一流のレストランで豪華美味。炒め物の油は大豆、落花生、ゴ マが主であっさりして胃にもたれず。オートバイ組はコカコーラかペプシコーラで、伴走組はビールで喉を 潤す。伴走組で良かった!都市毎に「瀋陽ビール」「鴨緑江ビール」等と都市・河・山等の名がついた地ビ ールがあり、味は有名な青島ビールに似ている。

・オートバイの衣装はヘルメット、ライデング・ウエアー、靴、グローブ、雨具等。転倒に備えてのひじ当 て、ひざ当てを装着した人もいた。
 先頭は賀曽利隆さんで、最後尾は古山隆行さんか新保一晃さん。都市内の行き先探しは外国人ライダーにとって困難なので、事情通の伴走マイクロバスや現地公安車が先導して、オートバイは後走が原則。本来オートバイ走行は禁止されている高速道路は、公安車がつくときは彼らが先導し、これにオートバイ、伴走バスの順。公安車は街中で赤信号でも一方通行でも特権階級のごとく突き進むので、妙な気分になった。その他の道はオートバイが先行した。
 田舎では、人気のない所で小休止し、男女共に用を足した。さすがは旅慣れたリーダーである。団体登山と同じで、誰かがトイレをもよおせば全体がこれに付合わなければならず、走行計画は狂ってくる。しかし、案ずるより生むが易しで、ベテランライダー各位の絶妙なる自己管理で、"ガマンできない"等ということはなかった。
 すべての道路は交通標識が少なく、信号がない交差点が多い。ガードレールはまったくない。カーブには 凸面鏡がないので、運転手は必ずブザーを鳴らす。追い越し、追い抜きも鳴らすので、うるさい。対向車は 過積載でムリに追い越してくることが少なくないので、これとの正面衝突にハッ!とすること再三再四。そ の都度、最前席に陣取っていた私は、日本語がわからない運転手に「危ない!」と声をかけてしまった。

・2600kmのツーリング中、道路は大半が舗装道路で、周囲は平坦地と低い丘陵が続いた。雑木林以外はト ウモロコシ畑一色。空から見てもそうだが、まさにトウモロコシの海である。他は背丈が短い米、大 豆、 白菜、菜っ葉もの、栗、桃、林檎、梨、林檎梨等。運搬車以外の耕作機械は少なく、まさに人海戦 術の観 がする。国営企業が生産性を導入したので失職者が溢れ、その救済と、財政難から機械化が遅れているのだ ろう。ときどき見る建設機械は一流の日本製が多く、たまには韓国製も見られた。(機械化 が進んでいる アメリカ等では、大地を平坦にならせる所はならして、超大型農業機械や飛行機等を駆使している)

・瀋陽市の南155kmの本渓市では、わき道の砂利道におりて、数十キロ先の本渓水洞の鐘乳洞へ。5色の光 に照らされた鐘乳洞は400〜500万年前にできたもので全長約3km、面積3.6万ku、1日4000tの地下水が わき、世界最大級。細長い地中池を電気推進観光小舟で片道2.8kmの旅は、自然の造形美が圧巻。寒いので 、あらかじめ防寒衣を着せられた。周囲では野生の乾燥キノコ、焼き栗、ぶどう、小梨、乾燥淡水魚、土産 品等を販売していた。

老辺餃子宴で5種類を賞味                   ウエイトレスの歓迎挨拶、左が通訳の呂さん

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