中国の北朝鮮国境地帯を2600kmツーリングA
野生の乾燥キノコはいかが 朝食は5円で熱々のクレープを
9/26(金)
・丹東市(旧安東)は港町。到着は夜になり、明るい町並みとは対照的に、対岸の北朝鮮・新義州市(しんじゅ)は真っ暗で、電力事情や
経済事情をうかがわせる。首都ピョンヤンまでは200km。長白山(白頭山)の天池というカルデラ湖からの滝が源流で、全長802kmの鴨
緑江(おうりょくこう)の河口にある。河幅は約1kmで、黄海まではさらに40km。国境線は互いに対岸の河岸で、橋は中央部。昔は鴨の
頭のような緑色の水面で、それゆえ鴨緑江と呼ばれていたが、河の上流にダムができて流れがせき止められたためか、河は濁っていた。
住民は28部族で構成され漢族、満州族、モンゴル族、回族、朝鮮族、シボ族等で、人口240万人の32%は満州族。
・17階建の国際飯店は3つ星で料理はうまい。洋式浴槽と便器は日本のTOTO製が圧倒的に多い。TOTOは中国で衛生陶器を年140万個生産し120
万個を中国で販売しているが、それでも都市の水洗化に追いつかないほど発展しており、上海とベトナム・ハノイの生産を計80万個増やす
という。コカコーラ等のように、世界戦略を実践している日本株式会社の優等生のような会社である。水は少し濁っており、飲用にはミネ
ラル水が欠かせない。この旅では車にいつもミネラル水のボトルを積んでいて、全員飲んでいた。
・丹東市の3つ星の国際飯店泊
カレー入り中華煮込みはうまい 上の黒い2粒はお蚕(かいこ)
9/27(土)
・丹東の朝6時、部屋から鴨緑江の向こう側に北朝鮮の新義州市が見える。人も煙も見えず。青水工場という国立の麻薬工場があるというが本当だろうか。
一方、丹東の町は人々で賑わい、屋台で朝食を摂る人多し。5円以下で安い。果物屋にドリアンあり。ある小商店は、電気代節約のため、客が入店したときのみ電灯を点灯していた。(日本では全国規模のコンビニ:セブンイレブンやチェーン居酒屋:和民が大規模に実施して節電中)
・国際飯店23階の回転式展望レストランでは、蚕(カイコ)がでた。味は煮た栗のようだった。眼下に新旧ビルが入り混じった平屋根の多
い町、鴨緑江、1km先の対岸には、周囲をハゲ山にされた北朝鮮が一望できる。金正日将軍の命令により、何年か前に、食料増産等のため
に低い山の樹木はすべて伐採されたという。戦前戦中は日本軍が伐採しすぎたとして批難をあびている。このハゲ山に一定の雨が降れば、
土砂崩れや洪水になるのは目に見えている。将軍にNOといえる側近がいなかったら、この種の悲劇は繰り返されるだろう。なにせ、総書記、将軍---と世界から与えられた称号が1200もあると朝鮮中央テレビは自慢して喧伝しているが、それにふさわしい為政者なのだろうか。参考までに、幹部の周囲にイエスマンのみをはべらしていた日本の会社では、時とともに現実・真実から遊離して脆弱な経営に陥り、不況下で多くが競争に敗れて、淘汰されてしまった。
・この町にも満州時代の「日本製の面影」が多い。以下の「 」内は日本製。鴨緑江に架かる1911年完成の「鴨緑江断橋」は長さ944m。橋
の中央では船や伐採木が通過できるように、一部が河の上下流に水平に開閉できるような珍しい「オリゾンタル式開閉橋」だった。1950年
の朝鮮戦争では、中国から北朝鮮への支援を困難にしようと米軍の爆撃機に爆破されて大破し、中央部から北朝鮮側の岸辺までは橋脚のみ
となり、以後は使用不能のまま。その橋の中央終点部まで徒歩でゆく。1945年8月、日本の敗戦が伝わると財産をすべて放棄し、母達とこの
鉄橋を渡って南下し、日本へ帰国したのである。一抹の感慨がわいてきた。
鴨緑江上流に発電兼農業用水等の多目的「水豊ダム」ができると、上下流への水上交通ができなくなったので長さ946mの「鴨緑江大橋」を1943年建設。現在は中朝友誼橋といい、北朝鮮と鉄道、自転車、トラック、歩行等で中朝人には利用されている。外国人は橋の入口で進入禁止。橋の真中が国境で、中国側の鉄橋のみが塗装され、北朝鮮側は錆びていた。この橋の光景はどこでも同じだった。丹東市を鴨緑江の洪水から守る防護用の「堤防」、今でも賑わう旧春日町通りの「イチョウ並木」、錦江山(旧鎮江山)の「公園化」「桜の植樹」神社」建立跡、「動物園」も旧日本製。錦江山頂上の3階建の物見塔は錦江亭で、ここの望遠鏡は28円で対岸の北朝鮮の生活も垣間見られる。かつて中国の丹東市と共に北朝鮮は新義州市を開発しようとしたが頓挫し、ほとんどの煙突に煙なし。造船所は赤錆て船なし。観覧車は止まったまま。この地のガイドは「いつきても動いているのを見たことがない」といっていた。やはり発電量不足か。
・北朝鮮人の出稼ぎ人か、北朝鮮の切手や武器等の玩具を売っていた。地元のガイドによれば「中国で印刷された北朝鮮切手」らしいが。
街中には、同様に北朝鮮人が多く出稼ぎにきているという。
・10/28には、鴨緑江を回遊する国営の遊覧船から、大阪出身の北川和美さん(29歳)が自分の荷物を船に残したまま河に飛び込み、北朝
鮮に密入国した。同日、朝鮮中央テレビではニュースになり、北朝鮮も2重スパイ?と疑い、困惑しているとか。10/29以降の日本のテレビでも、彼女から5通の手紙を貰った友人等が彼女の素性を放送していた。1995年、21歳でオーム真理教の信者になり、2001.10.15付で脱会届を出し、その後は在家信者だった。資本主義社会に奉仕するのはいやで、北朝鮮旅行歴1回。その後、在日朝鮮総連や瀋陽市の日本総領事館に北朝鮮への入国を相談していた。まったく世間知らずで、本の内容に没頭したりして純粋で、世事にうとく---、泳ぎは得意だったというが、日本で泳ぐ(生活)のは苦手だったのか。10/5の友人への手紙では「ホテルの外にでられない、ホテルでの生活に不足はないが、日本の100円ショップで買える程度の薬、インスタントラーメン---でよいから送ってくれ、北朝鮮に旅行にこないか、会いたい---」と。24時間監視され、手紙は検閲される環境で、暗に帰りたい旨の文脈になっているとか。2005.11.3には6か国会議(日・米・韓・中・露・朝)の思惑からか、同国から強制送還された。自由で豊かな日本では「どんな人生もあり」で、人間が本来持っている無限の可能性が今後どんどん表現されるだろう。過去にはなかったこのような言動をする人が、これからはますます増えるだろう。ましてや日本は歴史的に無防備社会で、信頼や性善説で成り立っている自己防衛無縁の村社会である。市民権行使という点ではまだ幼い。無能な政治家に幼い市民の構図も不変である。ハチャメチャな文化は際限なくエスカレートしている。よってテロ、カルト教団、インチキ商売、集団自殺、理由不明な殺人、育児放棄、身内虐待等は序の口で、前代未聞の事件や現象が起きるだろう。それらの未来も予測して、事前に対応することが肝要である。これらの新現象に遭遇して、驚き戸惑っている著名な評論家やマスコミの言動には、いつも落胆させられる。
・逆に、2003年はたびたび多くの北朝鮮人、元在日朝鮮人、元韓国人、元在日朝鮮人と結婚した日本人等が北朝鮮側から鴨緑江や豆満江を
渡って中国に密入国し、脱北者となって問題になっていた。また、うわさでは北朝鮮人兵士が自動小銃を持って中国に侵入し、村人から金
品を巻き上げた、というので、国境周辺の管理は公安武装軍から人民解放軍に代わっていた。従って北朝鮮のと国境沿いを走行する今回の
ルートの保証はなく、変更も大いに懸念されていた。
さらに米国、日本、韓国、中国、ロシア、北朝鮮の6か国会議の開催が提起され、北朝鮮は「朝米2国協議」を唱えて国際情勢は緊迫して
いた。
そのような背景から、北朝鮮の岸辺まで行ける国営遊覧船の乗船は米国、韓国、日本人には禁止となっていた。だが、ここでも王さん等
の計らいでOKになった。上げ潮で流れが逆流した河面では、ヤマハのエンジンを搭載したモーターボートが周囲を疾走し、事故や密入出
国防止を図っていた。
北朝鮮側の岸辺に近づくと、路地の上空には、赤地の横断幕に白抜字でスローガンが見られた。地元の通訳によれば、「21世紀の金正日
将軍 万歳」の意と。対岸の人々に大声をあげて朝鮮語(ハングル)で挨拶し手を振ったが、反応なし。川岸に係留された船で作業してい
た船員は、手を振って応えてくれた。中国側の鴨緑江の岸では、釣人はリール付釣竿に餌は青イソメと日本と同じだが、北朝鮮側はより質
素な服装でリール付釣竿は少なく、道糸を手に釣具を投げていた。対岸には、にぎやかな会話や笑顔はなかった。
・中国の都市ではどこも7〜40階位の高層マンション建設が目をひく。台風や地震がないためか、構造は日本に比較して弱く見える。高級マ
ンションは1戸150u位の面積で、400〜800万円で飛ぶように売れているという。台所他の内装は購入者が購入後に職人等を入れて設置する
ため、ほぼ同額がさらに必要とか。そのため、町には必ず職人が待機している通りがあり、自分の特技を書いた札を首・胸・手から下げて
ご指名を待っている風景に出会う。米国のLabor Pool(仕事を求める労働者の溜まり場)は農作業が主である。
・ここから国境沿いにロシア、北朝鮮との3国国境の防川までの走行許可は、出発日3日前だったというきわどさだった。また、山岳地帯
になるため、戦前戦中は抗日ゲリラが暗躍した地方で、故金日成主席も活躍した神話の地である。現在は脱北者等の取締りのため、緊張し
た地域になっている。丹東市から鴨緑江に沿って201号の舗装道路を北東にゆくと低い山になり栗、桃、ぶどう、林檎、梨、林檎梨等の山
肌がつづく。地元のガイドは「栗の御用命は私に!」と宣伝していた。日本からはバイヤーがきているという。山中の峠は中国名で嶺に
なる。レンガ焼き場が散見され、家々はレンガ、土づくりが多く、トタン屋根は皆無だった。
・約20kmゆくと虎山。昔は虎がいたのかな。東の寛甸満族自冶県虎山郷虎山南麓の虎山長城は、紀元前に北の匈奴(きょうど)等の侵略
から守るために構築された。その防護壁は、1469年には本格的に整備し始めたとされる万里の長城の東端にあたり、現在は敵楼と戦台が修
復されて700mが完成し見事。長い壁は高さ6m、幅は底部で5m、頂上で4m。時間がなくて寄れなかったのは残念だった。
・寛甸満族自冶県のスズキの販売店で記念写真。隣家のレストランでの豪華な昼食は、満州族が多いためかミソ炒めもあり。近くの商店街
一帯は新婚さん向けの家具・寝具・結婚衣装等のみを販売しており、ユニーク。露天では焼き芋、焼きトウモロコシ等もあり、人々は日本
人に酷似していた。
・道路端には、ガードレール等はまったくない。高さ50cm位の紅白に塗った杭が数メートル間隔で立っているのみ、という道が中国の普
通の道である。
その山道の急な下り。それもカーブの路面にトラック等からこぼれたトウモロコシ粒が散乱していた。小雨も降っていた。この日は先を
急いでいた。これで賀曽利尚さんのタイヤがすべって転倒し、車間距離が短かった次の中蔦・倉谷さんも転倒して、危うく3人ともオートバ
イと共に谷底へ転落するところだった。オートバイは1台の前輪が曲がり、バックミラー等を破損。中蔦さんは左足脛部を強打したが、何人
かが用意していた応急手当品で手当後、運転を継続できた。一時はあまりの痛さに骨折を疑ったが、本人の「運転できる!」にすがった。
結果的には打撲ですんだ。
曲がった前輪は古山さんの腕力でハンドルと直角に戻し、破損したバックミラーは済南スズキのメカニックがセロテープとガムテープで
固定した。メカニックはダンボール箱に部品をたくさん持参していたが、なぜかバックミラーの予備を持っていなかった。オートバイの部
品では最も必要なのに。バイク旅ではガムテープも必需品だが、これも持っていなかった。
このツーリングでは、後走するマイクロバスから見ていて、さらにハッ!としたのは、踏切の段差でオートバイが転倒しそうになったこ
と。遅い前車を追い越すときに、中央線側を猛スピードで追い上げてくる後車の直前に割り込んだことだった。後者の理由をきくと、ヘル
メットの前をきめこまかに掃除しなくて、汚れで見にくかったという。ライダーの不精は厳禁である。
・田舎の路上には歩行者、自転車、オートバイ、三輪車、各種リヤカー、力車、自動車、トラック、牛、馬車、ロバ車、トラクター、アヒ
ル・羊・山羊・牛の群れ等がいるので追いぬき、追い越し、交差は慎重さが必要。
・給油所では、男の子がオヤツにインスタントラーメンをそのままかじっていた。女の子は、声をかけたら逃げた。絹をとるための、生き
た蚕を積んだ小型三輪車が止まり---、土地の雰囲気が伝わってくる。
・寛甸のレストランで昼食時、テレビの取材があった。ここでも囚人が監視のもとに道路工事に従事。オヤツに頬を膨らませていた顔は、
みんな明るかった。日本の刑務所ではどうかな。
・夜、オートバイの燃料切れとトイレタイムで小休止した。すぐ、地元のオートバイが通りかかり、青年が止まった。すると、我々を地元
民と思ったのだろうか、手にしたビニール袋の中をのぞかせ「このカエルを食用に1匹112円で買わないか」と。料理具もない我々は誰も買
わなかった。が、冷たく断ったようにとられては気分を害すだろうと、日本から持参していた「柿の種」をあげた。彼はそれを一口食べて
は、「うまい」といっては残りをふところに入れて、笑顔で闇夜に走り去った。
あるホテルでは、テレビのつけ方教えてくれた若い女性のフロアー係員にチョコレートをあげたら、素直に喜んでいた。しかし、高速道
路のある給油所では、10代後半とおぼしき女子店員にチョコレートをあげようとしたら、笑顔で丁寧に断られた。「われわれはポットにお
茶を用意していますから」と。通訳は田舎娘だよ、というが、立派な言動に彼ら(中国人)のプライドを感じた。
それはそうと、カエル売りには初めて遭遇した。どうりで、夜になると、ある地方では道端を懐中電灯で照らしていた御仁がいたし、昼
間はカエルが道路を横切ったりした。中国の一流レストランにはたいてい魚の水槽と共に生きたカエルも展示されており、客のオーダーで
料理して出すという。ちなみに、開発途上国の路上にはカエルやネズミ等の小動物の死骸があるものだが、中国は皆無であった。空にも鳥
は例外的にしかいなかった。米国やオーストラリア等では野性動物の死骸が多く、自然の豊かさと自然破壊を感じさせたが、遼寧・吉林省
の道はヨーロッパと同じように清潔である。
・通化市の2つ星の修佳江賓館泊。夕食料理は25種類でナマコ料理もでた。大食漢のライダーも食べきれず。
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春巻 食後のデザート
9/28(日)
・今日は明るいうちに長白山に着かなければならないので5:30起床、6時出発。ホテル前の朝市広場では先端が2つに分かれたラッパ、鐘、
タイコの伴奏付で体操をやっていたが、全員赤旗をふりながらなので、踊りかマスゲームの練習かな。市場や屋台での朝食風景等は興味津々。鐘を鳴らしていた背筋の通った老人は、写真を撮っていた私に親しそうに寄ってきて「国民学校で日本語を習った」と流暢な日本語で話しかけてきた。かつて通化市は、戦後の混乱期に八路軍が日本軍人等を大量に処刑した地である。
ある給油所では、古い発動機を付けた牽引車で石炭を満載した荷車を引いてきた人にあった。顔は日焼けと埃と地顔?で黒くすすけてい
たが、背広姿でコントラストが妙だった。そこで、田舎の人だから日本語はわからないだろうと「石炭運搬に背広とは不釣合いで面白い」
と独り言をいいつつ写真をとろうとしていたら、「私、少し日本語できます。学校で1年間習いました」というのでビックリ。世の中を甘
く見てはいけない、と再認識した。文化大革命後の改革開放政策に入ってからは、日本語も自由に学べるようになったという。かつての侵
略者の行いに拘泥されず、その日本人の言葉を選択してくれ、決して裕福でない身で学んだことに感激して、握手を求めた。ちなみに、こ
の旅行中、日本人に対する敵意や怨念等を持って接してきた人は、皆無だった。
・広場の片隅に、子どもを抱いてうつむいて座っていた老人がいた。地面に器を置いた初めて見る物乞いだった。毎朝食後は、ツーリング
中に腹が減ったときにと饅頭を数個ポケットに入れた。その饅頭をあげたら、無言・無表情でとった。瀋陽市では渋滞車の間をぬって物乞
いをする中年女性に1回だけ遭遇した。いつもの饅頭をあげたら、「現金をくれ」とつき返された。物乞いや乞食は極端に少ない。ある中国
人ジャーナリストは変身して乞食になりすまし、彼らの生活を調べた。すると、私生活は貧しくなかったと、テレビの番組であったとか。
・オートバイとマイクロバスは、1日1回は給油した。給油所はどこにもある。朝が早いと給油所は作業者が少なく、セルフサービス。また
給油作業はたびたび買い手にまかせる所があり、管理はずさんである。スタンドには単価、購入量、オクタン価、購入金額が表示され、料
金は事務所で払う。世界ではスタンドに購入金額が表示されるのが常識なのに、なぜか日本では、見かけたことがない。米国では多くが、
給油も料金精算もセルフで、クレジットカードで処理できるという時代なのに。
・通化市から201号線を北東にゆくと、交通は激しくなった。トラックと農業用運搬車が多い。しばらくすると、自転車に乗った通行人等の
顔がなぜか黒くすすけていた。真っ黒な人もいた。いぶかっていると、付近に小さな手掘り炭坑が散在していた。そのせいか、河は泡だっ
て汚染されていた。
トイレタイムで小休止すると、先行していたわれらがライダーも防塵マスクが真っ黒に汚れていた。
・海抜が数百m上がるとナナカマド、イチョウ、白樺、モミジ等が紅葉していた。緯度的には青森県の奥入瀬渓谷と大差なく、紺碧の空と
あいまって風景も同様に絶佳だった。この2600kmの道はどこも手入れが行き届いており、路上に穴は皆無で、路肩崩れなし。沿道にはコ
スモス、百日草、ケイトウ、サルビア等が延々と植えられていた。派手さはないが、お見事!である。
・倉谷さんが走行中、オートバイの後輪からささいな雑音を聞いた。調べるとブレーキドラムの中で、1対になったライニングシューを互
いに中央に引いているスプリングのバネが1つ外れて、ブレーキドラム室に転がっていた。他のオートバイはナンバープレートの止めボルト
が緩み、ナンバープレートが外れそうになっていたのと、ヘッドライトの電球切れ。砂利道は少なかったが---、中国製の品質のためか。
・青空に紅葉が映える海抜1500m位の山中で国際電話。北朝鮮との国境近くの無人地帯で、走行中の車内でも市内電話のごとく身近に声が
はずむ。伴走マイクロバスに乗車していた藤間さんが携帯電話で奥さんと仕事の打合せ。次いで私の妻を呼びだし、私→王さん→荻野さん
→賀曽利隆さんとつなぐ。次は九州の大学に留学中の王さんの娘さんに電話し、2人は車中で話す。藤間さんの気配りに感謝!携帯電話は
大活躍。予定が定まらないオートバイのツーリングでも、旅の先々で現地のガイドとの待ち合わせ、レストランでの食事の予約、ホテルと
のチェックイン時間確認、現地公安警察等との連絡等がスムースにできたので、旅の成功裏の立役者はこれだった。今ふりかえると、空腹
でガツガツしていた我々に対して、朝昼夕の料理はすべてタイムリーだった。王さんの采配に改めて感謝したい。
後日は、同マイクロバスで走行中の王さんの携帯電話に「日本の建設業者(大阪府吹田市の幸輝。2005.11にインチキリフォームで幹部が逮捕)等185人が、旧マカオの隣町の広東省珠海市で500人の女性を集め
て買春行為をし、中国政府が遺憾の意を表明」とEメールが入って、全員苦笑。中国のインターネット普及数は世界第1位である。かつて
の太平洋戦争で無線通信が登場してからは戦争・政治・経済・文化等に劇的な変化をとげたように、インターネットやEメール等は今後の
世界を大きく変化させるだろう。国民の声、市民の自己表現等がこれで大量に発信されれば政府も無視できなくなり、この媒体がもたらす
影響や変化に細心の注意が必要である。(その後、中国人14人が逮捕され、日本人3人はICPO=国際刑事警察機構を通して国際指名手配にな
る)いまや、醜態はすぐ世界に知れ渡る。ラジオ、テレビ、携帯電話、インターネット等は国境をなくしている。
ついでに、帰国後の10月末には、西安の西北大学で日本人教授と大学生が文化祭の演壇に突如かけあがり、胸にブラジャー、股間に大き
な男性器の模型を、胸には「これが中国人」と書いてバカ騒ぎして、騒然となる。抗議のデモ、日本レストランへの破壊行為、日本人女子
留学生への暴行---とつづく。仕掛人の謝罪文掲示等で収まったが、「郷に入っては郷に従え」だろう。
ハチャメチャな日本文化をそのまま持ちこんで通じる国は少ない。かつて、お笑いタレントが裸踊りで破廉恥騒ぎを起こしたトルコでも
同様だった。日本人の海外旅行者は、地元人からの「日本人に対する一般的な評価」の影響を強く受けており、それ次第で「土地の料理がでる食事に招待されたり、逆に罵られたり---」残念である。
・長白山(白頭山)に近づくと、朝鮮人参を干している風景が増す。畑で、青いビニールで覆って中を薄暗くし、太陽の光を適度に遮って
出荷まで5〜6年以上育てる。新鮮な朝鮮人参の値段は品質・時・場所・販売相手等によってまちまちである。乾燥物で1kg2000〜5000円位
か。天然物はこの10〜100倍する。日本でも栽培はしているが、自然自生は、世界で朝鮮半島やこの東北部の山林の樹下のみである。根を乾
燥したものを白参、蒸して乾燥させ飴色になったものを紅参といい、強壮薬として古来から有名である。
・長白山は中国名山の一つで、中では最高峰。古来より周辺で暮らす満州族、朝鮮族等の聖地として、清代には支配民族であったヌルハチ
初代皇帝等の満州族の発祥地として、2度も入山が禁止された。そのためか、翌日に拝観した麓の自然博物館では、国家主席等の政府高官が
多数訪れた様子が掲示されていた。カルデラ湖の天池は海抜2190m、深さ384m、東西幅3.55km、南北幅4.64kmで、北海道の摩周湖より
少し小さい。これを中心に外輪山で形成された山頂は、中国側の天文峰は2671m、北朝鮮側の頂は2774m。北朝鮮との国境が天池の中央を
北東〜南西に走っている。
ここに降った雪はやがて解け、天池を源流とする大河は3つある。満水期の7月には毎秒2.15トンの流水が落差68mの長白瀑布となり、こ
こを源流に鴨緑江は黄海へ。図們江(朝鮮名は豆満江)はロシア、北朝鮮、中国の3国の国境を接する防川の先で日本海へ。第二松花江はや
がてロシアのアムール河に合流してサハリン(旧樺太)北部とシベリア大陸の間の間宮海峡へ。アムール河の流水は、真冬に間宮海峡で流
氷となり、一部は北海道北岸に接岸する。神聖な長白山の頂上の水は、やがて日本にも届くわけで満州族、朝鮮族等と血族関係にある人に
は興味深い。
・この旅のハイライトの1つは、この長白山の登頂と写真撮影である。そのため、夕暮れ前にはどうしても登頂したいと、突っ走る。昼食は
紅葉映える道端でそそくさと朝食の残り饅頭等を腹に放り込み、女性3人もトイレットペーパーのロールを片手に藪に飛びこみ、急いですま
せてひたすら走った。世界を車やオートバイで旅する場合、じつはこのトイレの処理が問題なのだ。特に都会では、まずこれを頭に置かね
ばならない。
長白山の麓の運動員村停車場(4駆で登る基地))には午後3時着。山門からここまで約30分のドライブ区間は、オートバイの乗り入れを
禁止しており、今回が初めてとか。国営の係員が運転する日本製4輪駆動車に乗り換え、山肌に新雪を見ながら不毛の寒中を山頂直下の天
文峰駐場へ10km上がる。5〜10月の観光シーズンには50台位の4駆が駐車しているそうだが、観光シーズン終了間際で20台位しかいず1日
の登山の終わりにさしかかったのか、我々以外に観光客はいなかった。冬季の閉鎖期間に注意!
・山頂手前で下車して、寒中を徒歩で約100m上って頂上に立つ。気温−1度。強風が痛い。眺望絶佳で360度見渡せる。他に観光客はいない。北朝鮮側にも人一人見えない。看板は1つもナシ。眼下に青く神秘的な天池が満々と聖水を貯めている。水鳥1羽いない。茫漠たる外輪山も静寂郷で、聖地らしい趣をかもしだしていた。昨日まで2日間は天気が悪くて雪さえふり、今日も雲がでて青空がどんどん覆われていたが、"すべりこみセーフ"の天候に感謝した。この旅のリーダーである賀曽利隆さんをはじめ、仲間にはとにかく"ツイテル"人が多く、天気までもが不思議に味方してくれた。
・中国側の裾野はなだらかで、紅葉に包まれていた。じつに平和な光景である。天池には、得体の知れぬ怪獣が棲息しているかもしれない
と自然博物館に目撃記録が映っていたが---雰囲気はある。目撃した季節は圧倒的に夏が多い。冬季はゼロ。冬は湖面が凍結しているから冬
眠しているのかな。それはそうと、スコットランドのネス湖も訪れたが---いまだ未確認のままでミステリーはつづく。
頂上では、威勢のいい朝鮮族の青年が記念写真を勧誘し、100m下の小屋では、熱いインスタントコーヒー等を1杯140円で売っていた。カ
メラは皆が持っていたので、頂上では商売にならず、彼らはすぐ直下の小屋に戻った。日本人は商売にならない、と敬遠されているかもし
れない。こういうときは付合いが大切である。さして飲みたくもないコーヒーを1杯注文した。若いときの貧乏旅行では相手の心情等を無
視していたが---、歳のせいか。
・北朝鮮では、満州族等と共に長白山(白頭山)が民族発祥の地の聖山であるため、この神秘的なムードを政治的に利用しようというのか"
白頭山生まれの金正日将軍"を2003年になって声高に叫び始めた。後継者選びの都合といわれているが---、高山を霊的にとらえるのは、原
始宗教に共通し、発展途上国ではよく見られる。
中国側では、観光客歓迎の方針から麓にはホテルもある。ガイドに聞いたら、日本人観光客は年間200人位だが、今年はSARSの影響で
ゼロに近かったとか。この山は休火山で、山頂近くでは熱湯が噴出していた。82度の源泉が流れる河原では、地鶏の卵をゆでており5個140
円なり。
・上空は完全に雲に覆われた夕刻、せっかくきたのだからと、天池から流れでる長白瀑布の基点を見ようと試みた。2003年に完成した瀑布
沿いの遊歩階段の通行料は350円。緑の軍服に自動小銃を抱えた若くて細身の中国人兵士5〜6人は、1日の国境警備を終え、下段してきた。
これとすれ違いに登った。他に観光客はいなかった。しかし、893段の階段はあまりに急勾配で、踊り場は1箇所で(最上階までたどり着か
なかったので、その後は不明)、頭と目はフラフラ、心臓は破裂しそうで最年長の私は中途で断念した。"世界の賀曽利隆さん"とてキツイ
と思ったか、最初から参加せず。他の若い猛者はなおもトライした。唯一の女性ライダーである古山里美さんは挑戦し、そのガッツに敬礼した。しかも、893段の階段を冷静に数える余裕があったのだから。(香川県の金刀比羅宮の階段は785段)
これはゴロ合せだが、長白山(ちょうハクサン)も白頭山(ハクトウサン)も、893になるところは日本人に興味深い。(名山:泰山の
階段は約7000ある)
だが、夕暮れと共に稲妻を光らせながら豪雨がきて、やはり全員諦めて途中で引き返してきた。どうりで、中国人兵士は傘をもたず、ま
た雨がくると思ったのだろう。湖水が流れでる基点は乗槎河という浅い川になっており、階段の最上段のさらに1km先だという。聖山の
守り神(怪獣)はそっとしておくべきか。
それにしても、朝からの行程を反省すると、途中での小休止、長白山入口山門での入場料支払時の小休止等、もっと時間を切り詰められ
るだけ切り詰めるべきだった。あと30分早ければ、雷雨の雲であたりが薄暗くなる前に、美しい写真が撮れたかもしれない。長白瀑布の基
点も見られただろう。欲張り過ぎか。
・「ナイル河の水を飲んだ者はナイルに戻る」、という言い伝え通り、かつてアフリカのスーダンの首都ハルトームでは、白ナイルと青ナ
イルが合流する地点の水を飲んだ。これに見習い、滝壷の水をうやうやしく飲んだ。長白山を聖地と仰ぐ朝鮮族や満州族等は、一生に一度
はゆきたい山。その巡礼者や観光客等には好評なのか、土産物店や博物館では長白山から噴出した軽石を土産用に売っていた。自然保護区
とはいえ、これら土着民の行為には中国政府も寛容的のようだ。私も、頂上の軽石を記念品とした。
・在日朝鮮人が経営する5つ星温泉ホテル「国際観光飯店」に宿泊。ゆかた、丹前あり。トイレットペーパーは3枚重ねで、日本ではお目に
かかったことがなかったので感動した。首まで浸かれる大きな日本式温泉風呂は木造りで、硫化水素や硫黄の臭いとその効能で身体は温ま
り、疲れが吹っ飛んだ。
就寝前には、成田空港で買ったウイスキーをお湯割りで飲みながら一日を振りかえり、日記をつけた。日中は、気づいた点はすべて胸の
ノートにメモした。最も頻繁に通訳に尋ねるのは私で、藤間さんは"うるさいほど"と形容していた。
・従業員は北朝鮮から夫婦単位で出稼ぎにきていた。勤務は3年間で別夫婦と交代する。男性は日本語が少しわかった。例の美女応援団の
ごとく、きれいに化粧した若い女性は胸に金日成のバッジを付けていた。記念に、一緒に写真を撮ろうと通訳を介してためらう彼女を説得
し、記念撮影。彼女に笑顔はなく、少し緊張していた。
この旅ではどのホテルでも、部屋には魔法瓶に入れた湯があった。が、ここにはなく、5つ星ホテルらしくない、と思いながら彼女に持
参してもらった。北朝鮮の宿には、就寝前にホットウイスキーを飲むような、不心得者はいないのかな。
ちなみに、朝鮮族で延辺大学卒の張哲姫さんは日本人のような流暢な日本語を話し、彼女のルーツをたずねると「父方は北朝鮮、母方は韓国から」と、ガイドの優等生のような答がかえってきた。おまけに美人である。以前の朝鮮族は北朝鮮風だったが、中韓国交締結後は韓国文化の大量流入、韓国人観光客の影響、北朝鮮の国内事情等で、一気に韓国風に変わりつつあるという。
・ホテルの土産物屋では、東北三宝といわれる特産品の貂(ひょう)の毛皮、滋養強壮剤の乾燥した朝鮮人参、鹿茸(まだ骨化していない
鹿の角を輪切りにしている)があった。さらに輪切りにされた鹿の乾燥ペニス、バイアグラまであり。ロビーの一画では、北朝鮮の首都ピ
ョンヤンの万寿台芸術院所属と掲示したの中年画家がキャンバスに水彩画を描き、作品を売っていた。絵はすばらしかったし、値段も安か
った。が、油絵の絵の具は、高価過ぎて使用できないのだろうか。
・長白山の麓の在日朝鮮人が経営する5つ星の国際観光飯店泊
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醤油売りがリヤカーでくる。1リットル14円 朝市で朝食