中国の北朝鮮国境地帯を2600kmツーリングB
広い歩道が自転車修理作業場 満州族のトウモロコシ焼き屋と焼き芋屋
9/29(月)
・真っ青な空に紅葉が映え、背景に長白山の姿は絵葉書のように美しかった。まるで秋の北欧・カナダ・チリ等のようだった。給油所で、
しつこく売りにきた婦人から、洗いたての朝鮮人参を500g560円で買った。ビニール袋に入れておいたら、温かさで下のほうがカビてしま
ったので、ホテルに着いたら机の上に干すことにした。ワサビのような殺菌作用はないらしい。(健康薬として、今は焼酎やブランデー液
に漬けられて暗室で眠っている)
・中国内で最も朝鮮族が多い延辺朝鮮族自冶州。多くは日韓併合を機に朝鮮半島から移住してきた人々である。その州都は延吉市。現在は
北朝鮮直営のレストランが5店はあるという。横書きの看板はたいてい上が朝鮮語のハングル文字で、下は中国語。あるレストランで昼食中
に地元のテレビの取材を受ける。
この町でも道路工事に囚人が従事していた。タクシーの車種は、外国製としては最初に国内生産を認められたフォルクスワーゲンが断然
多い。しかし、延吉市はほとんどがスズキの小型車。日本のスズキは、2003.9の中間期連結決算で過去最高の利益を出しているが、世界戦
略に彩られた小型タクシーに、その手腕を見る思いがした。交通渋滞下で、ミズスマシのように軽快に泳いでいる姿は、決して「貧しい発
展途上国は小型しか買えない」からではない。通常の人や物の移動には、総合点で小型自動車が優れているからだ。
・市内の自由西市場には、絹を取った後の生きたお蚕さんが食用として売っていた。食用の茶色いほおづき、キューイのような味がする親
指大の果物(猿梨)、ピンポン玉サイズの甘い梨等が目を引いた。野菜の種類は日本より少なく、ネギは1本8円。餃子用の素材を買って
餃子コーナーで頼むと、好みの餃子を作ってくれる。北朝鮮から輸入された乾燥タラ、スルメ等が目を引く。中国人は北朝鮮にビザなしで
15日間行けるとかで、車で持ちこんだものか。生魚は中国の大連からきているという。ちなみに、世界の市場や商店を数多く見たが、日本
の野菜や果物の品質は、一般的にいえば最高である。
・オートバイは新車のため、延吉市のスズキ代理店で総点検とエンジンオイル交換。
・図們(ともん)市郊外の図們江(豆満江)にかかる橋は図們大橋。両岸に葦を茂らせた河は、河面の幅だけだと約50mで、対岸は北朝鮮
である。中国人以外の観光客は橋を渡れず、たもとで写真撮影。中国側は観光客目当ての土産物屋がひしめきにぎやかだが、対岸はひっそ
りしている。北朝鮮人とっては、外国旅行は禁止されており、外国人との結婚も禁止しているとか。ときおり、北朝鮮側にも石炭鉱のボタ
山が見られる。
・私は太平洋戦争終戦直後、生地である満州の奉天市(現瀋陽市)から3歳で現在の北朝鮮→韓国を通って母達と帰国しただけに、複雑な
心境である。途中で死んだ人はなおさらだが、中国や朝鮮で置き去りに、あるいは身売りにされた子ども達は、その後どのような運命を強
いられたのであろうか。中国の文化大革命時も、残留日本人は辛い思いをしたという。
日本から北朝鮮に拉致された人、その子供の行く末も心配である。日本のNGO・NPO団体は約420人が拉致されたらしいということで
詳細を発表し、政府はその内の15人を認定している。関連報道は連日なされている。それにしても、国家の最高権力者がマスコミを前に、
正式に拉致を謝罪し関係者を処罰したといっているのに、拉致された人々や家族を帰さないとは言後同断である。
2003.11.13の日本のテレビ放送によれば、脱北した12歳の少年は、父は北朝鮮で餓死、母は中国に売られた。一部では人肉さえ食べてい
るという食料事情が悪い北朝鮮では特に、孤児となっては生活できず脱北。朝鮮族が多い延吉市では橋の下で寝て、物乞いとゴミをあさっ
て食べ、それでも"以前より太った"という。北朝鮮の食料事情を物語る。国連食料農業機関(FAO)は、北朝鮮国民の約3分の1にあたる750
万人が栄養不良で10年前に比べると倍増したと、国連世界食料計画(WFP)は子供の40%が栄養失調で飲料水の80%が不適と発表している。
・2003/10/27の日本のテレビでは、北朝鮮で労働鍛錬隊に収容された経験がある脱北者の証言があった。それによると、この辺の対岸には
穏城(オンソン)という町がある。そこには北朝鮮から中国に脱出し、その後、中国当局に拘束され、送り返された人々の監獄「労働鍛錬
隊」の施設がある。拘束期間は1年未満だが、居住面積は1人当たり0.3u位で、横になって寝る空間がなく、座ったまま寝なければならな
い。電力不足のため、停電で動けない電車や貨車を人力で移動させたりの過酷な労働は男女も妊産婦も区別なし。1日の労働後の思想再教育
は睡眠時間をさらに短くし、飯は家畜用の皮と芯が混じった固いトウモロコシに塩が入ったオカユがわずかしかでない。もっとも、国連世
界食料計画(WFP)が撮影した一般国民の食料事情も、似たようなメニューだが。
この他、収容期間が2〜3年の「教養所」、長期の「教化所」、終身の「政治犯収容所」(収容人数15〜20万人)が全国に点在するとい
い、ガス室での処刑、国立麻薬工場もあるという。
・図們江(豆満江)対岸の北朝鮮側に、密出入国監視のためと思われる小屋が散見される。しかし、厳冬 期は、河面約50mが凍結し、渡
河は難しくない。うわさによれば、北朝鮮の軍人は脱北者1人あたり1400〜2800円で便宜をはかっているという。中国の闇取引者等は、北
朝鮮当局が感知できない中国の携帯電話を1万台以上持ちこんでいるという。脱北が決して難しくない理由がここにあるかもしれない。
・琿春(こんしゅん)市はロシア国境と近く、ロングボデーのロシア製トレーラーが、主に中国製消費物資を買出しにきていた。決済はU
Sドルや金とか。現地最高の2つ星ホテル琿春賓館の土産物店には望遠鏡、時計等のロシア製工業製品が多い。ホテルはかつてロシア人が
作ったのか堅固でロビー・廊下・個室は大きく、バスタブはなし。男子用小便器の高さは北欧並に高く、やっと届く有様だった。
この日は、この市の姉妹都市である日本の鳥取県境港市から友好使節団がきて、同ホテルで「熱烈歓迎---」の赤い横断幕のもとで明るい
笑い声が弾み、会食していた。
・琿春市最高の3つ星の琿春賓館泊。
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朝鮮戦争時のミグ戦闘機か? 朝鮮族が多いためかキムチの材料は豊富
9/30(火)
・ミグ戦闘機らしきものはMiG-15bis(ポーランド製のLim-2)にそっくり。
・朝食には豚の皮の成分から作った透明な皮凍(ピートン)がでた。トコロテンのようだが、動物性蛋白質の味だった。
・図們江(豆満江)に沿って下流へ南下し、防川へ。途中で北朝鮮へ橋がかかる広場で休憩。全員が四方八方に散ってトイレをすます。国
境の橋を見ていると、ロングボデー車が橋を渡って北朝鮮に入り、数人の係官がでてきた。他に人はいず。ここもひっそりしており、橋は
中央から北朝鮮側は塗装がはげてボロボロに腐蝕していた。防川の町には寄らず、国連平和広場へ。ここは単に3国が接するの橋のたもと
で、看板以外に何もなし。そして日本海への河口に位置するロシア、北朝鮮との3国国境が見える「一眼望三国展望台」に向かう。右手の
対岸は北朝鮮で、ハゲ山とトウモロコシ畑にわずかな農家が見られ、農作業者も車も見えず。穏やかな川面には数隻の小舟が浮かび、漁師
は1人ずつだった。漁網は見当たらず。左手は原野で低い潅木が繁茂し、ロシアとの国境を示す、高さ2m位の有刺鉄線が張り巡らされて
いる。人家はなし。かつては多くの朝鮮族がいた地域である。
旧ソ連のスターリンは、ここに住む朝鮮族を全員内陸部に強制移動させた、という。名目は内陸部の開発だが、国境を挟んで同族が住む
と何かと国境紛争に発展しかねない、と危険を予知したか。中国側は吉林省東南部に位置するこのあたりを延辺朝鮮族自冶州とし、中国内
では最も多くの朝鮮族が住み延吉市、図們市、琿春市等では民族衣装のチョゴリを着た女性を見かけた。満州国時代は、現在の延辺朝鮮族
自冶州を間島省と呼び、省都は延吉市で、最も反日運動が盛んだった地域である。
私がその有刺鉄線を開き、賀曽利隆さんがその間をくぐりぬけてロシア側に立って、有刺鉄線越しに記念写真を撮る。もちろん冗談だか
ら"ロシアの強制収容所での悲痛な叫び"と演出しても"ここまでツーリングできた喜び"といった笑顔になってしまった。完璧なツーリング
衣装をまとった、平和的な構図だった。つづいて藤間さんが実施。
・行き止まりが3国国境だった。快晴で心地よい気温の中では、中国軍が駐屯する高台の「一眼望三国展望台」から右手に閑静な北朝鮮の
丘陵地帯、左手にこれまた静まり返ったロシアの大平原に集落、彼方にザルビノ港、前方は秋の日差しを受けてキラキラ光る日本海を望見
できた。かつては日本軍の偵察隊も忍び込んできて小戦闘を繰り広げた戦略要地である。
また一時は、北朝鮮がこの辺を自由貿易特区にしてロシア、日本、中国、韓国と共同して経済の起爆効果を、といっていたが、その後は
どうなったのか音沙汰なし。
展望台から約1km南に、ロシアから北朝鮮につながる鉄道が図們江(豆満江)をまたいでいる。右手は北朝鮮の豆満江駅、左手はロシ
アのハサン駅。この橋も、河の中央から北朝鮮側は橋脚等の作りが異なり、塗装されておらず、お国の経済状態を垣間見る思いがした。展
望台の3方の壁面には朝鮮、日本海、俄羅斯(ロシア)と表示されていた。北朝鮮、東海と表示しないことに、中国の政治的見解を見る思
いがした。2003.11.5の国連では、日本が北朝鮮と呼ぶので、北朝鮮の代表はジャップと3度さげすみ、議長から注意を受けると退場してし
まった。韓国は、日本海を東海と主張しているが、国際的な認知はまだない。
・朝鮮族の焼肉店に狗(いぬ)の字があるので通訳に質問すると、朝鮮族の焼肉は犬肉とのこと。養犬場もあるという。今回は試食の機会
がなかった。
・敦化市最高の3つ星の敦化賓館泊。18:30の朝鮮語のテレビで、我々のツーリングの紹介があった。
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河の左はロシア、右は北朝鮮 透明なのは豚皮の成分のピートン(凍皮)
10/1(水)
・朝食は90品の料理がならびビックリ。しかも、どれも好みの料理ばかり。国慶節のためか、何かの祝があるのかな。清朝皇帝の妃で、権
勢をふるった西太后(せいたいこう)の60歳の誕生祝でも28品目だから、いかに時代が変わったかの象徴である。
・1949年10月1日は中華人民共和国の建国記念日(国慶節)で国民祝日だが、全国的には7日まで連休が一般的である。都会に働きにでてい
る人の多くはこの機会に実家に戻るので、時折すれ違う遠距離バスは満員。 乗用車を造花や赤いリボン等で飾った結婚式の行列に何度も
出会った。東北地方では、結婚式は午前中で、誕生祝や葬式は午後に行われるとか。
・敦化市郊外に渤海国の城跡(熬東城址)がある。レンガ製造場、製材所がときどき見られる。敦化市の70%は森林で、主な産業は林業。
黒龍江省の省都ハルピン市等と同じように、ここでも終戦直前に日本軍が毒ガス弾等を埋め、被害者がでている。田舎では、日本と同じよ
うに各地の小学校で運動会をやっていた。本家はどっちかな。
・蜂蜜が採れるのか、道路端に売店を数多く見かける。蜂蜜を入れて売る器は千差万別。0.5リットル入りの半透明な白いプラスチックタン
クはうまそうで、安そうだった。蚊河(こうが)市郊外からタバコ畑あり。
・吉林という言葉は、かつて満州族がこの地を「河沿いの町」=ジーリンウーラーと呼び、これが漢訳で吉林烏拉となり吉林になった。中
国の地名の由来はこの手が多い。長白山を源にする第二松花江が吉林市内を流れ、この町はかつて竜がつくったということで、橋の欄干は
立派な竜の装飾が施されている。鉄道も通る橋は、張作霖の弟の張(作造?)が作ったという。夏は40度近く、冬はマイナス40度とい
うことで樹氷が有名だとか。1954年までは吉林省の省都で、北朝鮮の故金日成主席は13〜15歳時、ここの河岸にある中学校で学ぶ。
・郊外のレストランの昼食では、満州時代に日本人がつくった人造の松花湖で捕れた淡水魚がでた。豊満ダムと名づけられた人造湖の面積
は550kuで日本の琵琶湖より少し小さい。高さ92m、長さ1080mのダムに蓄えられた水量は108億トン、落差58mの水力発電量は100万kw
、人造湖の長さは180kmで、建設時は東洋一の規模だった。(日本の関西電力轄封柏第四の貯水量は1.5億トン、発電量は26万kw)。
当時の首都新京(現長春)市の水瓶、発電、農業用水等の多目的人造湖だった。日本人が近くの山肌に「豊満ダム」と読めるように木を植
えた跡が今でも読める。気宇壮大な満州国建国の意気込みがつたわってくる。
地元の通訳は、「建設工事では100万人の死者がでて、無造作に近くの山肌に埋められた」という。日本の同様の工事による被災者は、中
部電力轄イ久間ダムで96人、関西電力轄封柏第4で54人だから、いくらなんでも100万人は多過ぎだろうと、ガイドに重ねて死者数を確認
したが、何かの資料をメモしてきた「ガイド虎の巻」を示して、断固として譲らず---「白髪三千丈」の国らしい。人造湖を遊覧船で30分間
まわる。
・ある給油所では、上海市で作られた中国製の古いオートバイが見られ、運転手と通訳を介して歓談。同好の士はすぐ会話がはずむ。黒龍
江省ハルピン市の第一汽車(自動車)製の名車「紅旗」は見かけなかった。
・吉林省の省都吉林市には、5世紀初頭に築いた高句麗山城の遺跡がある。高句麗の構成民族であるワイパク諸族は紀元前1世紀後半頃、
吉林省東南部から鴨緑江にかけて住んでいて、遼寧省東部に高句麗王国を建国した。やがては朝鮮半島をも支配し、日本人には朝鮮半島に
花咲いた高句麗の興亡の方が一般的だと思うが、その200年前である。その後、中国東北部で幾多の抗争を経てから朝鮮半島の百済、新羅等
と争い、668年に滅亡した。
この歴史が教えるのは、異なった民族が住む大陸では、長い間にじつに多くの争いがあり、今日に至っている、という過酷な歴史の再認
識である。比較的平和な歴史が当たり前の日本人には、理解の限度を超えているように思う。
逆に、小異を乗り越えて異民族が団結すれば、互いに平和と富という計り知れない利益をもたらし、その例が今日の中国、アメリカ、E
Uヨーロッパ等に見られる。旧ソ連、旧ユーゴスラビアのように、これが瓦解して戦争と混乱に逆戻りする例もあり、人類の試行錯誤は今
後も繰り返されるだろう。真にユナイテッド・ネイション(国際連合=人類連合)の時代がくるのはいつのことだろうか。
・王宮の門等には、必ず石づくりの狛犬(こまいぬ)=獅子(しし)が1対で左右に鎮座している。中国読みでは単に獅子(シューズ)と
呼んでいる。王宮に向って右手に、オスは右足で玉(ぎょく=富の意)を踏み、左手はメスが左足で子供(家や子孫繁栄の意)等を踏んで
いる。ホテル、レストラン等と、いたるところに"縁起物?"として見られる。これらの石造彫刻作業場兼販売所を延吉市から長春市への街
道で、たくさん見かけた。
・吉林省の省都長春市(旧新京)に着くと、長春駅前の長春賓館(旧大和ホテル)のレストランでテレビの取材あり。済南スズキ会社が、
あらかじめ宣伝のためマスコミに連絡していたもの。朝鮮人参が入ったスープ、鹿肉---とおいしい料理がつづくが、ときにはタンメン(湯
麺)が食べたいと事前に通訳におねだりしていたら、スープにウドンが入ったものがでた。これでも結構うまく、全員喜んでいた。ちなみ
に、日本流タンメンやラーメンはどこでも見かけなかった。
・日本人の寄付で建設された立派な中日友好会館(ホテル)の裏庭では、日本庭園が築造中だった。日本庭園は、元来中国の庭園を模倣し
たところが少なくなく、中国で見る日本庭園は奇異に感じた。
・ホテルのテレビはいつもON操作が難しく、フロントに頼む。テレビは日本製も少なくないが、たかがON操作なのに、国が違うと何で
こんなに難しくなるのだろうと、情けなくなった。同時に、文化の違いがこんなささいな所にもあるんだなと、逆に感心した。
・ときどき田舎道で、写真撮影やトイレ等で小休止。田んぼにはイナゴが、大小の川には必ず小魚がたくさんいた。私が子供の頃も日本は
同じで、楽しい思い出は尽きない。大量の農薬や生活排水等で、やがてこれも絶滅させるのだろうか。
・長春市の4つ星の中日友好会館(ホテル)泊。ロビーで、かつて見慣れた青い服を着た人を見かけたので、「もしや!?」と思い声をか
けたら、元勤務先会社の方だった。7月から長春市の浄水場の電気工事できているとか。言葉は日本語と漢字と少々の英語でやれるとか。
夕食は薬膳火鍋料理。テレビの取材あり。
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エビも並べればきれい! 薬膳火鍋料理では朝鮮人参のスープも
10/2(木)
・朝食はいつもバイキングスタイルだが、ここは料理が113品目ならび---まさにギネス記録もの。王さんの言によれば、この程度では珍
しくないとか。やはり国慶節のお祝いかな。世界で5000以上の宿に宿泊した荻野さんが「これまでの最高!」と太鼓判を押した。もっとも
大半は安宿だっただろうが。
・清朝最後の第12代皇帝「宣統帝」であり、映画「ラストエンペラー」でも紹介された溥儀の公邸を見学した。1909年、北京の紫禁城で3歳
で皇帝になり、1911年、強力な日本人支援者等を得た孫文等の辛亥革命に遭い満州族が取りしきる清朝は瓦解し、下野して天津市に居を構
えた。1932年には、満州国建国に際して日本の関東軍に擁されて執政として、1934年には満州国皇帝に即位。妻は5人いたが子供はなし。
国旗は主な国民を構成する中国人、日本人、朝鮮人、満州人、モンゴル人の「五族協和」を意味する5色旗だった。首都は新京市(現長
春市)。満州国は日本の敗戦と共に1945年消滅。かつて日本人技術者等が建設した建物、給水塔、鉄道、橋---は今でも活用されている。旧
大和ホテルは春誼賓館(ホテル兼レストラン)。
それにしても偽(ぎ)満州国、偽皇宮、偽満州国務院、偽満州国八大部(軍事部、司法部等の国家中枢機関で現存する8つの建物)等と、
カイライ国家と主張する満州国時代のものには偽がついていて、支配された側の憤りが伝わってくる。数十の立派な建物は今でも、中国共産党吉林省や中国人民銀行吉林省分行等の政府機関として使用さている。
・長春市→四平市→瀋陽市は旧満鉄に沿って走る。長春市から四平市までは吉林省内のため、王さんの説明では納得せず、高速道路は規則
通りオートバイの走行は禁止され、一般道になった。
・四平市では、できれば駅に寄りたかった。だが団体行動だから寄り道はできず、ゆけなかった。まことに残念。胸には熱いものがこみ上
げていたが、そっとこらえていた。
ところが、四平の街をでる直前で、倉谷さんのオートバイがパンクした。このツーリングでは初めてである。私は絶好のチャンスと、地
元の人にきいたが、駅は近くなかった。そこで、せめてもと思い、自転車修理店でパンクの修理中に「四平」という文字が入った風景をカ
メラに収め、心をしずめた。その理由は---、
私の母は、父と子供4人と奉天(現瀋陽)で暮らしていた。1945.8.15の敗戦と共に全財産を放棄して、子供4人と親戚の子供達を連れて
なんとか帰国したが、四平市の駅では父と最後の別れをした。父は「たぶん、2度と会えないだろう」と、涙をぽろぽろ流していた。そして、それは的中してしまった。母はこのとき、何かの足しにと、持ち金を父のポケットに入るだけねじ込んだという。
戦後、父と同じくソ連の捕虜になって廃人同様になって帰国した青森県の戦友は、父の実家に手紙をくれた。父「大内馨」は、ソ連のイ
ルクーツクから50kmの村で森林の伐採等に駆り出されていたが、過酷な労働と、これに反比例するような貧しい食事と衛生状態で病死寸
前になり、寒中をトラックで運ばれていったが、昭和21年3月頃、間違いなく死んだだろうと。
その後、日本政府からは昭和20年11月28日付の死亡通知がきた。年齢が高い人ほど死んだというが、38歳ではもたなかったのか。ソ連の
「抑留強制労働政策」なのか、捕虜を効率的に統制できる日本人将校を積極的に協力させるため、彼らに対する待遇は悪くなく、そのおか
げで将校は全員生き延びて帰国したという。将校は、身の保身のため積極的にソ連に協力して、仲間の抑留者を酷使し、多くを死に追いや
った、と戦後になって告発する元抑留者もいた。
ソ連はスパイ・ゾルゲの情報「日本は南方の油田確保等に向かい、しばらくはソ連に侵略しない」等を採用し、極東にあった戦車等を安
心してヨーロッパに送り、1945年5月、これでヒットラーを追い詰めて自殺に追いやった。この後直ちに、これらの戦車等をシベリヤ鉄道で
極東に戻し、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、怒涛のごとく満州に侵入し、中国東北部を支配した。ヤルタ会談で米英から「日本に参
戦したら樺太(サハリン)、千島列島(クリール列島)を貰える」と確約をとり、ここに歴史的な勝者の分配が決定された。その千島列島
に、日本がいう北方四島が入っているか否かはロシアと日本で”ただいま審議中”。極力南の暖かい港が欲しいソ連は8/6の広島原爆でも勢
いづき、8/9の長崎原爆の日に中国国境内になだれこんできた。
歴史に「もし--」「--れば」「--たら」は無意味だが、ソ連軍はシベリアで日本軍と対峙していたため、ゾルゲの情報がなければ極東配
置の戦車等を安易には動かせず、モスクワや旧レニングラード等の武器ではヒットラーの侵略に耐えられなかったかもしれない。となれば
ヨーロッパの勢力地図は今日と激変していたに違いない。彼は1941年10月にはスパイとして日本で処刑されたが、彼を英雄視したソ連以外
にも後世の評価は上がるかも知れない。(逆に、この時期、日本のドイツ駐在大島大使は、ヒットラーの言葉にだまされ「ドイツはソ連に
侵略しない可能性大」と日本に通知し、後日はその誤りの大きさに謹慎して官界から去った)
父は、敗戦日直前、経営していた奉天の鉄工場を閉鎖し、関東軍に徴用されてすぐ、そのソ連の捕虜になった。そして、ソ連は日本軍部
を武装解除させ、捕虜約50〜70万人を汽車等に乗せて各地へ連行し、強制労働につかせた。この間に死んだ抑留者は、公式には57,500人と
いう。
欧米列強の海外領土拡張政策は、海洋航海術が確立した中世から始まった。ヨーロッパ等のわずかな国を除き、その魔手はやがてアフリ
カ、北中南米、アジア、南太平洋、極東と、全世界にまでも達していた。その残酷な成果は、今日の世界地図が示すところである。その後
、ヨーロッパ以外で、ヨーロッパの言語が国語または主要語になった国は、すべて侵略・併合された地域である。当時、このような世界的
な植民地獲得風潮に危機感を覚えていた日本は「これを座視して、周囲を列強の植民地に囲まれ、やがてこれに対応するために過大な防衛
体制で経済を冷えさせて疲弊してゆくか」、「植民地化されるか」、「国力に応じて積極的に打ってでようか」等と迷っただろう。インド
ではすでに、ガンジー等が反英感情をあらわにして、欧米植民地主義に対決していた頃である。
逆に、政治や軍事力等が脆弱で、結果的には被災した東洋の民は、問答無用で押し寄せる欧米列強を前にして、同様の思いだっただろう
。そして、昔から深い交流があった近隣で、民族的にもかけ離れていず、ある程度の力のある日本を味方にした方が、自分達には好都合だ
という民族もあっただろう。
1881年、ハワイ諸島のカラカウア第7代国王は、日本を公式訪問した初の外国人元首であった。彼は、アメリカ人等の流入に伴う疫病で
人口が6分の1に激減したことと、アメリカ人に議会の大半を支配され、やがては植民地化されるのではないかと危機感が募り、太平洋では
最後の独立国となった日本に同盟を申し出てきた。妹の子のカイウラニ王女と日本の皇族の山階宮定麿王との政略結婚をもちこんできたの
である。明治天皇・政府はこれを断り、4年後の1885年からは日本人の移民が開始されたが、1898年には危惧したとおりアメリカに併合され
てしまった。当時、欧米以外で独立を保っていた国は他にタイしかなかったほど、全世界は欧米列強に飲み込まれていたのである。
時代の流れで清朝は滅亡し、その再興を期した皇帝の愛新覚羅溥儀等も、単に日本に利用されただけではないだろう。
やがて、日本は明治から積極的に海外植民地政策を強行した。背景には、前記以外に、前時代の鎖国や階級社会で市民による国政経験の
無さ、大土地所有制度による経済の窒息状態、地主と小作人との貧富の差、子だくさん、特に長男以外の者の就職難、少ない天然資源---が
あった。
そして、敗戦。現地民に対しての功罪はいろいろあったが、敗戦国に課せられた戦勝側の一方的な罪状により、「現地民に多大な迷惑を
かけた」結果となった。東京裁判の結果では死刑7名、終身刑12名だったが、日本全体では60人が戦犯として処刑された。中国の吉林省通化
市における戦後混乱期の日本人大量処刑のように、外国で処刑された数も少なくないだろう。しかし、敗戦後の極東国際軍事裁判(通称、
東京裁判)では、インドのラダ・ビノード・パール判事(博士)が、「勝てば官軍、負ければ賊軍といって戦勝国が新たに法律をつくって敗戦国を裁判するのは間違い」といって、交戦国の11名の判事中唯一、戦犯25名全員無罪の判決を下した。
この論理は、今日の国際法学界の定説となり、国際法の教科書にも採用されているという。当時は英国の植民地化で、やむを得ず英国に
協力して日本と戦い、多くの犠牲を払ったインド人には、純粋な法理論は別として、「民族の尊厳に基づいて宗主国の英国に反抗し、支配
者の一方的な判決で処刑された尊敬すべき仲間」に、日本人被告がダブって見えたのかも知れない、と思うのは私のうがった見方か。私の
過去の旅の見聞では、南アフリカのオランダ系白人いわく「日本が英国の戦艦をインド洋で撃沈したときは、やがて南アのわれわれも追い
出されるのかと恐怖に震えたよ」、1957年アフリカで植民地主義者から最初に独立を勝ち取ったガーナ国では「日本が欧米に立ち向かわな
かったら、旧被植民地国は永遠に独立できなかったかもしれない」、中近東やアジアの人々は「欧米の植民地主義者の侵略に、よくぞスト
ップをかけてくれた」といっていた。
ともあれ、国策である満蒙開拓に乗せられ夢が破れた両親、(両親の言によれば)戦闘要員として生ま れたものの、敗戦国の惨めさを味
わうことになった私、そして被災国の人々をはじめ皆がその犠牲になった。
しかしながら、欧米列強が東洋のみならず全世界を、かつて植民地にしたインドや香港等のように支配していたら、今日の世界地図はど
うなっていただろうか。地球の国々は欧米一色に塗り固められ、欧米以外では日本が最後の完全独立国になってしまったような追い詰めら
れた時代に、日本がもし欧米の世界植民地化戦略に刃向かわないでいたら、今日の地球の公用語はすべて欧米の言語になっていたのだろう
か。それを想うと悪寒がする。
日本は、明治になって鎖国を脱し、世界を見ると強者がひしめいている。士農工商で政治と無縁だった日本人は、いまだに主人になれな
いで、いまだに市民権を使いかねている。かつ、激変する世界での国政経験が希薄な日本人は、まずしたたかな個を確立し、グローバルな
視点で国内政治を見なおすことがなにより焦眉の急である。戦後、国防費には100兆円も投じたのに、肝心の市民のレベルアップにはどれ
だけの税金を使い、どれだけたくましい国際人になったのだろうか。自衛隊や米軍が使用する土地代、米軍に対する思いやり予算を含めれ
ば数百兆円も使っているのに、本命の国民は激動する国際社会の中でしたたかに生きぬく術を磨いたのだろうか。少なくとも、他国に迷惑
をかけない国民に成長したのだろうか。
日本人の、国際人としての政治能力はまだ幼い。
かの連合国最高司令官マッカーサー元帥は、西洋民主主義を支える欧米人と比較して、遅れている日本人を見て「(欧米人を45歳とすれ
ば)日本人は12歳である」とため息をもらしたが、いまだに顕著な成長は見られない。国政経験が浅い国民なのに、目的意識をもってレベ
ルアップをしないことは基本的かつ重大な元凶である。だから、憲法の国民投票に耐えられず、民主主義が機能せず、変化が著しい時代に
合致した憲法改正ができないのである。自らを先進国等といっているが、じつは法治国家の原点である憲法を改正できないほどのオソマツ
クンで、恥ずかしいかぎりである。占領軍に押しつけられた憲法なのに、半世紀を経ても改正回数はゼロである。ドイツの51回以上に比べ
れば、”文化が違う””憲法に対する規範の相違””憲法改正手順の難易度の違い”等ではいい訳にならない。占領軍に英語の原案を突き
つけられ、これには天皇制の言及はなく、さすがに「もし天皇制を挿入しなければ暴動等が起きて、これの治安維持は不可能」と脅して挿
入に成功したが、マガイモノ憲法である。通常は、憲法制定に当たっては国民間に意見の相違等で流血騒ぎになる例も珍しくはなく、そん
な叩き合いがない憲法制定である。だから、自分で創っていない憲法だから、国民のほとんどは全部で何か条あり、象徴天皇と主権在民は
どちらが先に書かれているかも知らない。これは悲劇的であり、喜劇である。
過度の権限を天皇に集中して、千変万化する戦時情勢に機敏に対応できず、既定方針を運用や解釈でごまかして対応し、遂には惨敗を期
した前大戦時とまったく同じである。憲法制定時にはなかった地球の環境や大規模テロに関する取り組みも、憲法に挿入すべき事項として
多くの賢者から指摘されていながら、何もできないのである。法治国家と標榜しながら、最高法規の憲法に記した「陸海空軍その他の戦力
は保持しない」でさえ大きく逸脱して、防衛費がダントツの米国を除いては世界のトップクラスの年約5兆円という膨大な防衛費で維持し
ている自衛隊は、矛盾の極みである。それゆえ、自衛隊員は位置付けが曖昧で正しく評価されず、哀れである。このようなオソマツクンで
は、強大な自衛隊をシビリアンコントロールできず、危険であり、本末転倒である。
憲法では、「国際紛争解決に武力は使いません」と宣言していながら、外交政策ではテロリストへの先制攻撃へとエスカレートしている
国と同盟を結んでいることは、危険である。小規模なテロリストならいざ知らず、大規模・広範囲なテロリスト相手なのか、特定の国相手
なのかの区別は難しい。もし日本の国益に大きくかかわる国際紛争で、同盟国が自国の国益を優先して日本の紛争相手国を先制攻撃したな
ら、その程度がどの程度なら憲法との整合性はとれるのだろうか。状況にもよるが、少なくとも、「大規模な先制攻撃までやるなら、憲法
上、同盟関係に重大な支障をきたす」くらいの外交交渉があってしかるべきである。
また、日本と重大な紛争がない国に対して、同盟国の事情で先制攻撃をし、戦争を始めた後に、日本がその戦争のお手伝いをするのは、
例え後方支援でも憲法上疑義が発生するのではないか。国権の最高機間である国会の議員選挙投票率でさえ、先進国では最低。男女平等・
公平参画社会が国際常識だが、日本はこれも男尊女卑の封建社会の見本みたいなもので、先進国では最低。教育水準は最高と喧伝している
が、OECD加盟国の30か国で、教育予算は対GDP比最低で、公立小中学校の1学級の平均人数は最低の韓国、トルコに次いで3番目に多いのに、
生徒数が不足して廃校になる所多し。日本に最も必要な国際語である英語検定(TOEFL=国際教育交換協議会)の合格率は、すべての面で
遅れているといわれている北朝鮮とお友達で、アジア30か国で最低。論理より情緒が優先する危険な島国村人。度を超えたホンネとタテマ
エ・腹芸・阿吽(あうん)の呼吸・根回し・以心伝心---、現代っ子には鈍臭く滑稽である。
身を賭してさえ藩や国を案じたサムライ等の精神は、明治維新のチョンマゲ切断と共にやがて風化した。目先の地位・金・名誉等に狂奔
し、村のドブ板選挙にさわがしい日本人を、故坂本竜馬、吉田松陰等は嘆いているだろう。多くの欧米人が彼らの人間性に惹かれ、サムラ
イや武士道の精神に一目置くのは、彼らの気高い知性と破天荒な行動であろう。
・瀋陽市の4つ星の鳳凰飯店泊。ホテルにはロシア領事館が入っている。夕食は朝鮮族の焼肉屋で、朝鮮人参のキムチも賞味。狗(いぬ)
肉は食べず。
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世界の5千の宿と比べ最高の料理という右端の荻野氏 料理はどれも美味しく、迷ってしまう