中国の北朝鮮国境地帯を2600kmツーリングC

貯金は豚箱へ                          食用のお蚕(かいこ)は生きている

10/3(金)

・朝一番で、出発式を行ったスズキのディーラー店に挨拶にゆく。オートバイの走行計をのぞくと、全員が約2600kmを示していた。違い は数キロのみ。店長からはねぎらいの挨拶あり。私はA3の用紙に大願成就と記し私、賀曽利隆さん、藤間さん、荻野さんのサインを入れ て全員の前に掲示し、記念撮影。済南スズキの担当は全員から色紙に記念の感想文を書いてもらい、これらの状況をビデオに収録した。ラ イダー他全員が済南スズキに感謝の意を述べ、デーラーの発展を祈ると立派な答辞をしていた。その内容から、市民レベルの国際交流は合 格点と感心した。

・藤間さんは、遼寧・吉林・黒龍江省の東北3省を管轄する人民解放軍の瀋陽軍区作戦本部(参謀本部)と公安関係に挨拶にゆく。「北朝 鮮国境が緊張するなか、中国初のツーリング許可をくれたことと、無事に完走できた御礼」である。残りのメンバーは、瀋陽市東部の撫順 市で石炭の露天掘りを見学。長年、掘削された大穴のサイズは北南に6.6km、西東に2.2km、深さ200m。その地底200mでは今でも掘削 され、傾斜地の段丘を走って石炭を運搬しているのは皮肉にも電車かディーゼル車。昔の民家は平屋で燃料は石炭だったが、今は高層化で プロパンガス、汽車は電車かディーゼル車に変わり需要は激減。ゆえに、石炭は売れず不況だとか。大穴の彼方では、石炭火力発電所が意 気揚々と白い煙をあげていた。

 撫順市には先の大戦の戦犯を収容した施設があり、見学したかったが時間がなかった。清朝最後の第12代皇帝であり、満州国の皇帝であ った溥儀と、弟の溥傑も戦犯として十数年捕らわれた戦犯管理処である。抗日戦争期に華北で活動した毛沢東や周恩来等が率いる中国共産 党軍は、蒋介石等が率いる国民党と共同・背反を繰り返し、後に国民革命軍第八路軍と改称して華中の新四軍と共に最前線で戦った。やが て国民党を台湾に追いやり、1947年の中華人民共和国の独立時に人民解放軍と改称した。

・柳条湖(溝)事件があり、その後の満州事変の発端となった郊外の「9.18事変博物館」(中国呼称)の地へ。巨大な近代的形状博物館で は、日本から訪れた2組の旅行客に会った。満州に住んでいた人達、贖罪の意味もあるのか、寄付で小学校を建設し、その竣工式にきた人 達。(中国も竣工という)抗日戦争時の写真、遺留品、人形等が生々しい。日本語を強制的に学ばされる子供、犬に食われる捕虜、長さ5 cm位の針が内側ついた丸い籠に中国人容疑者を入れて回転させる拷問具、中国人を人体実験に使う731部隊(別名、石井部隊)、日本 軍仲間がにやけた顔で見守るなかで軍刀での首切り処刑、従軍慰安婦、首まで地中に埋められた敵対者---で、精神的には大変疲れる。
 日本軍は、中国軍部が仕掛けて南満鉄を爆破したとして、そのシンボルとして「炸弾碑」を事件のあった近くに建てた。当時はこれを、 日中戦争の正当な根拠として世界に宣伝した。戦後、中国はこの碑を横に倒して逆に展示し、欺瞞であったと説明を加えている。(アメリ カは旧北ベトナムのトンキン湾で先制攻撃をされたとして戦争を開始したが、これもウソだった。ベトナム人数十万人死亡、アメリカ人他 58、000人死亡。しかし、共産主義のグローバル化に水を差した点は、歴史的な評価があるだろう)

・日本軍と対立関係にあった軍閥の張作霖を、列車・橋脚ともども爆破した皇姑屯事件の現場へ。
 1928.6.4 am5:23、張作霖の私鉄「京奉鉄道」が南満鉄の上を通過する三洞橋という地点の橋脚と北京帰りの彼を乗せた列車を関東軍 が爆破。海外領土拡張政策は、いかなる国であれ、現地でのダム建設や商工業育成等の美談の影で、なんでもありで謀略をやってのける。 戦後、中国はその日本に対して戦争賠償を放棄したが、中国人等の被災者に対する償い、戦争の教訓、戦争再発防止を、日本人は決して忘 れてはならない。(第一次大戦後、多額の賠償を課せられたドイツは経済が破綻し、これを打開しようという背景もあって、領土拡大政策 をとるヒットラーの台頭を生んだ)
 余談だが、旧満鉄は石炭からディーゼル機関車になった現在もトイレはたれ流しで、線路は臭い。線路の幅は新幹線と同じで、標準軌道 の1.435mだった。

・私には、この旅での目的がもう一つあった。夕刻、忙しい中、他のメンバーに同行してもらって市内中心にある私の生家付近に行く。旧 満州国奉天市(現瀋陽市)大西区大西街五段壱百五号。予想どおり、周囲は一変して高層マンション等が建ち、父経営の鉄工所「大東鉄工 廠(しょう)」の工場兼住居跡は不明だった。通訳を通して近所の人にもたずねたが、正確な場所はわからなかった。が、何かが満たされ た。
 前にも記したが---戦後、母は単身で子供4人他を連れて着の身着のままなんとか帰国した。経済的には、多くの方と同じように塗炭の苦 しみを乗り越えて、子供全員を立派に育て上げ、老衰のため2002年2月に93歳で天寿を全うした。その母の病床でのうわごとは、ときどき中 国語になっていた。印象が強かった満州時代をたまに思い出していたのだろう。今では、父母を交えた一家団欒はないが、両親の「せめて お前達だけは、幸せに生きてくれ」という願いは果たそうと想っている。その点は、子供全員が「実現したよ」と自負していいだろう。私 も、両親の願望どおり、戦後は「平和という配当」を受け、フォルクスワーゲンのバンをキャンピングカーに改造し、単独で6大陸をドラ イブして夢を実現した。3歳で帰国したので生まれ故郷の記憶はまったくないが、その私が生まれ故郷を訪問するのは必然であろう。

・2000.8.26、長兄は、ロシアのイルクーツクにある父の墓参に"成功"していた。以下はその経緯である。父は、終戦間際に奉天市で陸軍に徴用された。部隊長以下ほとんどが在満州招集者で、約300名の新設部隊「福寿工兵隊」に所属し、四平市の満州人の中学校にいた。そのとき、新京市(現長春市)から満鉄では最後の引上げ列車で引揚途中だった母達と四平駅で偶然に遭遇した。この出会いが最後だった。その後は、この駐屯地から父の死亡直前まで一緒だった青森出身で戦友だった藤田堅太郎さんの手紙による。

 父は、四平市で、朝鮮か日本防衛のための出動命令を受け、「南に行ける」と、重い荷物も苦にならず駅へ。着くと、「列車都合により 移動は延期」と絶望の知らせを受けた。もし1列車早ければ、全員日本に帰れたと戦友は悔やむ。
 この1週間後に日ソ戦開始(8/9)の報が入った。その2〜3日後、部隊は「満州決戦は首都の新京市で」と新京へ車で移動。
 ところが8/16頃、部隊長から敗戦の訓示があった。全員涙で、軍支給最後のおはぎを食べ、ソ連軍の捕虜になる。ソ連軍の命令により、四平市の北の公主嶺市に車を引きずって移動し、武装解除。このときは、まだ一抹の希望があった。武装解除後は関東軍より召集解除になり、各自の自由になるかもしれないという願望混じりのニュースが飛び交っていた。
 しかし、公主嶺市に着くと、もはや敗戦国人ということで、満州人やソ連軍人等から苦役を課せられた。だが、希望はまだまだ捨てなかった。この頃、逃亡した人の大半は殺されたというので、逃亡できずに部隊と運命を共にしていると、ソ連極東のウラジオストック港から日本に返すということで、汽車に乗せられた。全員歓喜し、車中では演芸会も演じられた。主食は2〜3か月分あった。
 ところが、汽車は中国東北部の国境町黒河市をでると、ソ連の国境町ブラゴベシチェンスク、ベロゴルスク、そして、そこから何とシベ リア鉄道を西に向かってしまった。11/3に着いた駅はイルクーツクで内陸の極寒の地だった。全員、だまされたと絶望し悲嘆にくれた。  そこから雪中を50km歩き、シヤマンガ村へ。徒歩3日目には食料がなくなり、村手前3kmで約500名の捕虜は半死の状態になった。樹木 伐採の重労働は12/25からで、手紙は「最高重労働」と書いている。朝は4時から叩き起こされ、食事もそこそこにソ連軍監視人が大声で「 屋外で整列せよ!」と怒鳴る。食事の量は少ない。朝昼分を一緒に食べてもなお空腹は収まらず、足りない分は水か湯を飲む。昼飯分を朝 食時に食べてしまったときの昼は、雪を飯盒で溶かして飲む。喫煙者は煙草代わりに白樺の皮、松葉---と何でも吸った。当然、体力は目に 見えるように衰えた。仕事の能率に比例して日本に早く帰すとだまされていたので、帰国後の夢が大きく膨らんでいた父は無我夢中で働い たという。
 1946年2月下旬には、栄養失調者と病人があまりに多くでたので、10日間の休みがあった。これ幸いにと、約100名が体力を回復させよう と眠りふけったが、そのまま病人になった人が少なくなかった。
 ソ連側はあまりの窮状に心配して健康診断を行い、父の診断結果は2級で、「病人ではない程度」だった。これで仕事は少し減らされた が、睡眠時間は相変わらず短く、食料もソ連兵や日本人将校等がピンハネするので少なく、1か月後の検査では「栄養失調班」に入れられ た。それでも、極寒だというのに毛布は1人1〜2枚で、やがて自力では便所にもゆけず骨と皮ばかりになり、「見ることができない位に やせた」。同病室は「まったくこの世の生き地獄でした」と印している。
 毎日1〜5人死亡した。それでも父は「俺の家族は内地へ帰ったんだから、俺さえ生きて帰れば、もう何もいらん---」と希望を捨てずに いたという。
 3月初め、この強制収容所から特に衰弱した12〜13名の病者と共に、父はシベリヤの寒空の中をトラックで4時間かかってイルクーツクの 中央病院へ。戦友はこれが見納めだった。イルクーツクの病院には千名以上の日本人患者がいたという。ここでも、食事はピンハネ後のわ ずかな量で、父はイルクーツクの病院で3月頃に亡くなったと、シヤマンガ村で5月頃聞いた。収容者500名中、死亡者125名、栄養失調者 100名、準栄養失調者と凍傷者125名、非栄養失調者150名で、将校は1人も死亡しなかった。23才で廃人同様なって帰国後、手紙をくれた方 は「大内さんは、帰国後の綿密な計画を便箋に数十枚も書いていました。いつも夢を語って元気に振舞っていて、私は子供のようにかわい がられたものです」と末筆にお礼の言葉をそえている。

 その後、月日は経ち2003年。厚生労働省は「戦災遺児による旧ソ連での墓参」ツアーを募り、長兄はこれに応募。しかし、途方もなく広 く散在した墓地、埋葬地も定かでない管理不明な旧ソ連、墓地があっても名前の表示板は「金属板は金になる」と盗まれていたりで、決め 手のない墓参になるだろうとほとんど諦めていた。同伴した他の遺児の多くが、どこに墓があるのか、はたして正式に埋葬されたのか不明 のままの墓参だった。
 日本人の墓地としてはイルクーツクに最も近く、市の郊外にあるマラトボ村のは1960年代にできた。その元イルクーツク中央病院である 第1218特別病院付属墓地の整理番号4064-90(マラトボ村の墓地の90番)に着くと、なんと金属のネームプレートが盗まれずにあったのであ る。死亡後、十数年たってからつくられた墓地だから、もちろん遺骨がそこに埋葬されているかは不明だが。兄は、精霊の帰国の意味を込め、墓の小石を懐にしにばせた。

 母は生前、旧満州にもイルクーツクにも行きたくないといっていた。辛い想いもうたくさんという。1953年(昭和28年)、スターリン死 亡の報が流れるとホッとしていたが、11歳の私は母の反応の意味がわからなかったのを今でも記憶している。私は自身の想いと父母のへの 想い等から、生まれたこの地には機会があれば戻って見たかった。すぐ上の兄と妹もここ生まれである。

・生家付近のパン焼き屋を覗いて、白衣の仕事着を着た奥さんに懇願し、2人で記念撮影。続いて、そこから焼たてのパンをそのまま荷車 に乗せ、引いて販売にでかけようとするおじさんをつかまえ、2人でまた記念撮影。残念ながら、これでデジカメのフロッピーは残りの200 枚が撮影済で一杯になった。この日は残数を考えて朝からタクシーを飛ばして通訳と輸入代理店にいったが、開業時間前で買えなかった。 全員一緒の行動だから、どうしてもインスタントカメラさえ買う機会がなかった。中国では限られた店でしか買えない。せっかくここまで きて自分のカメラで記念撮影できないとはなさけなや。日本で十分な予備を準備しなかった軽率さを猛反省。レストランでの料理撮影はデ ジカメでばっちり撮れた。(帰国後、頭を冷やしてみると、なぜ不要な画像を消去して、その分を写せるようにしなかったか悔やまれる)
 生家訪問のついでに、両親の墓にでも供えようと、近くのレンガ塀のレンガ片を持ち帰った。

・奇遇だが、この町には満州時代、妻の両親も住んでいた。奉天市鐵西区興工街壱段弐拾七号は私の生家と直線で1〜2km離れているの み。ここも訪れ、再開発された跡地に立って、義父の写真を胸に記念写真を撮った。かつて給水を受けたコンクリート造りの給水塔はその まま屹立しており、今でも使っているという。妻の姉2人はここ生まれで、その給水塔の産湯に浸かったはずである。この塔にも、頭に偽 をつけて呼称しているのかな。

・義理の父母が満州で出会った最初の地は、旧大和ホテル(現遼寧賓館)。そこにも足を伸ばした。毛沢東の像が立つ中山広場に面してお り、義父の写真を胸にまたパチリ。荻野さんのカメラで撮ってもらった。この遼寧賓館では、後日、ここに4日間滞在して生まれ故郷を訪 問して帰国時に、瀋陽空港から拉致された山中榮三郎さん誘拐事件が発生。身代金510万円を持参した奥さんが瀋陽空港に着く頃、日本の警 察と連携した中国当局が犯人を隠匿先で逮捕し、彼は無事に帰国した。日中連携の見事さに、多くの人は感心しただろう。外国人旅行者は 常に"金持ち"と見られてマークされているので、一瞬の油断も禁物である。

・夜、スーパーで妻に料理本を購入。米国の友人にも英語版を買う。品数、ディスプレー、清潔さ、BGM、広さ、通行路幅等は日本と同 じ。店員の数は多い。

・瀋陽市の4つ星の鳳凰飯店泊。頭と尻尾までつけて飾りたてた北京ダックは、皮がおいしい。

リンゴと梨の味がする林檎梨                 全行程伴走の左から運転手の墨さん、中国側ツアコンの
                                   王さん、済南スズキのメカニックの陳さん、同社広報係
                                   の成さん
10/4(土)

・5:30起床。6時からの朝食中に、ビデオ屋が9/25〜26と10/2〜3に瀋陽市で撮影したビデオを近くのテレビに映し、2巻で1万円という。 これを賀曽利隆さんが代表して6千円に値切って買う。出発までの時間がないので、売り手も買い手も真剣勝負で、あきらめた方が負けであ る。売り手は昨夕の撮影後に徹夜で編集したかもしれないが---、中国の値引き交渉は毎度疲れる。しかし冷静に考えれば、誰かが1セット 買って後にダビングすれば安くついたのに。これでは違法コピーか。できれば、この旅のすべてをビデオにしたかったが、政情不安で走行 自体が危ぶまれていた状況下で、ムリだった。

・6:30ホテル発で、30km先郊外の瀋陽桃仙国際空港へ。中国側ツアコンの王さん、通訳の呂さんと全員が固い握手。王さんからは、中秋 に味わう本場の月餅を全員がいただいた。
 8:30、中国北方航空のCZ627便。旅が無事に完成した喜びか、中蔦さんは空港で踊っていた。皆も同様の心境だったろう。私は、これ に生まれ故郷を拝見できた喜びが重なり、満ち足りた気持になった。体調も良かった。

・快晴。飛行機が飛び立つと、地平線まで続くトウモロコシ畑を眺めながら、中国の旅を総括
 まずは藤間さん、賀曽利さん、王さん、呂さん、その他の皆のおけげで楽しい旅ができたことに感謝した。皆の絶妙なライディングが、 この旅を成功させたのである。誰かが交通事故でも起こせば、一発で全員の夢はご破算である。勤務先を辞めてまで参加した人が2人もいた ので、頓挫は辛すぎる。オートバイを無料で提供してくれた済南スズキを始め、関係者にも大迷惑である。過去には、他の日本人オートバ イ・グループのライダーが、敦煌手前で交通事故で死んでおり、その辺は一方で覚悟していただけに、安堵した。
 私にとっての旧満州の旅は、必然的に近世の政治や戦争を振り返ることになる。日本人が侵略し迷惑をかけた数々の証拠には、非常に胸 が痛んだ。日本人は戦争へ至った過程をしっかり把握し、「他国に迷惑をかけない国政」「近隣諸国と共存共栄」するように邁進すべきで ある。残念ながら、戦争の恐ろしさや残虐さはときおり語り継がれていても、日本人の大半はなぜ戦争が起きたのかには無頓着で、戦争を 繰り返さない環境整備は未成熟で---、杞憂を抱いている一人である。歴史が繰り返されるのは、かつての歴史が証明しているから、よほど のことがなければ、またヤルだろう。残念ながら戦争はネアンデルタール人やクロマニョン人の時代から途切れることなく続いており、半 永久に続くだろう。

 中国は1978年にケ小平等が改革解放政策を取り入れてから、25年間の経済成長率(GDP)は平均7%と正に奇跡の大成長をとげた。GDP国民1人りあたりは百万円で日本の4分の1。成長率は2003年が9.1%、今後数十年も7%が見こまれている。WTO(国際貿易機構)の元で、1次産業品はもちろん、2次産業品でも世界No1のシェアーを激増させており、世界経済に占める地位は年々向上させている。鉄の使用量は世界の3分の1、繊維生産量は36%(日本は3%)、自動車生産台数は米、日、独に次いで第4位で、国内販売台数は2003年435万台であと数年で550万台の日本を一気に追い抜く見込である。国の象徴である日本の畳表やアメリカの国旗も今やかなりの数が中国製である。日本全土の20階以上の高層建物は約1500だが、上海市だけで2000以上あるといい、経済発展の状況を物語る。
 2003年の年頭の挨拶で、元江澤民主席は「国際競争力のある企業を育てよう」であり、それは、日本が戦後の成長期に掲げた路線であった。それは見事にヒットした。中国はこの正攻法で益々延びるだろう。

 一方、日本の首相は「行財政改革、構造改革なくして発展なし」だが、国内経済のかつての牽引役は、かつての発展途上国との国際競争 にバタバタと負け、産業空洞化は目を覆うばかりである。国内資源に乏しい日本経済は、基本的に国際分業下での上手な役割分担で成り立 っているのである。日本の生死を握っているのは国際市場である。もし経済的に鎖国に戻れば、3か月で「日本破産」に陥るのは誰でもわ かることである。
 しかし、成功・繁栄すればかつての大英帝国のように、その土台や仕組みをつくらなかった年代は、その土台や仕組みの存在意義を忘れ やすく、油断・衰退するのが人の常である。戦後の半世紀が余りに順調にきたため、発展途上国がインフラ等を整備して猛烈に巻き返して きたにもかかわらず、これに気づかないのである。そのため、近未来の国際分業図を想像せず、明日の飯の種を探さず、ノンビリと老舗の 産業でうたた寝をしていたのである。
 かつての発展途上国が参入してきた国際市場の分業化は熾烈を極めている。一般的にいえば、発展途上国の農産物や漁業産物等の第1次 産業品の原価には、贅沢な生活費・軍事費・社会福祉費等が入っていないので安い。だから、これらに対して彼らの市場占有率が高くなるのは当然である。
 また、日本や欧米のグローバルな企業のように、低原価が魅力的な発展途上国と合弁事業を起こし、多国籍企業といわれる強敵は自国の 経済を圧迫している。わかってはいるが、各企業が生き残こるためには、必要悪と割り切るしかない。生き残りを賭けたシェアー獲得市況は、まさに経済戦争である。
 本来なら、これらの環境変化に対して「国際情報省」を新設し、経済上のあらゆる国際情報を収集すべきである。そして、その情報分析に基づいて、中長期的な国内産業育成のアクションを起こす「次世代産業育成省」を新設すべきである。そこから島国人・村人・国民を 誘導し、常に国際市場に合致した国内経済体制にすべきである。さらに、例えば、公共職業安定所は失業者の一時的な救済という受身では なく、「次世代産業員育成所」として、激変する国際分業に常時備えるべきである。いくら老舗や有名ブランドといっても、昨日の仕事だ けでは食っていけない時代が到来したのである。

 以下は2002〜5年頃の日本の変化だが、政府等の無策がたたり、社会状況は悪化した。(改善点は割愛)

●企業倒産件数は史上最悪。
●東京都のホームレスだけで約5500人。
●完全失業率も、戦後の混乱期を脱してからは、過去最高の5.4%に達した。職業・賃金・通勤距離等には不満な
  がらも、待ったなしの生活のためには最低賃金程度でも働かなければならず、これもかなりの数に登るだろう。
  15〜29歳の失業率は最も高く、その122万人はどうやって過ごせばよいのか。
●今や企業が年金等の負担をしなくてすむパートタイマーやフリーターは労働者の25%の217万人。60歳以上の
  労働者も増えて約900万人。高卒の就職希望者の半分は職なし。就職者でも3分の1がパートかフリーターで
  過去10年間で6倍に増えている。多額の費用がかかる進学をあきらめたり、家庭が不和に陥ったり、家庭崩壊
  につながった例も少なくないだろう。学生でも就業者でもない無業者は85万人。
●国民年金保険料が払えない・払わない加入義務者は40%超。国会議員でさえ国民年金を信用できないのか
  未加入・未納者は約40%で、多くの議員は「法違反(未加入・未納)はしていない」という証明を拒むとは言語道
  断である。国民は政治家がなにをやろうが常にとがめないから、お先が暗い。
●子供に対する親の虐待は公式数字だけでも年34、000件で欧米の約10倍に急増中。
●将来を悲観して少子化にも拍車がかかり、出生率は戦後の4.5から1.2へ。
●小中高廃校は1994〜2004年の過去10年で2000校以上。
●離婚数も増えて結婚数の36%で年26.7万組。
●自己破産は24万件へと急増中。
●偽札犯罪は過去5年で10倍に激増し、偽造カードで他人の預金を引き出している者急増中。
●犯罪もうなぎ上りで年285万件。近年では先進国でトップの犯罪増加率という。かつて世界から賞賛されていた
  検挙率は、下がって下がって21%。元警察官の某ジャーナリストは「実態は10%未満だろう」という。刑務所収
  容者は約7万人で、完全に定員オーバー。
●振りこめ詐欺の被害者は激増中。無防備な日本文化が脅かされて平穏な村社会は崩壊中。
●ストーカーは13、400件、家庭内暴力は14、000件で2004年はともに過去最悪。
●空き巣等は年190、473件で10年前の1.5倍に達し、ここ5〜6年の増加が顕著である。
●ある町の書店連盟の店平均万引き被害は年212万円で、万引き者の3分の1は15歳以下の子供たちである。
●OECD加盟国30か国で、対GD比の教育予算は最低、公立小中校の一学級の人数は多く下から3番目。
●OECD加盟国30か国で、高等教育における費用の内、私費負担率は3番目に高い。
●OECD加盟国30か国で、労働生産性は先進7か国の最下位。
●スイスの経営開発国際研究所によれば、日本の国際競争力は1993年1位→2004年23位(中国24位)。
●公立小中校の校内暴力は31、278件で前年比+6%。いじめは23、351件で+5%。
●最近は子供たちもMDMAという合成麻薬の取引が急増中で、大麻、コカインの押収量と共に過去最高。
●先生も負けじと、不祥事を重ねる。公立学校で不祥事を起こして諭旨免職等の懲戒処分に遭った先生は年
  3545人。内175人はワイセツ行為で過去10年で約10倍に激増。その内の97人は懲戒解雇で、懲戒解雇総数
  153人の3分の2を占めるという。私立学校を含めればもっともっと多く、悲しい。
●地方自冶体の教育委員会から「指導力不足」と烙印を押された公立校教員は481人で前年比+192人で+66%。
●放置自転車は、公式には99万台から54万台に減ったとはいえ、実態はこの数倍はあろう。モラルも落ちた。
●過労死・過労による自殺者は2003年197人(2002年は203人)。
●自殺数は先進国で最高で米、独の2倍、英、伊の3倍。
●子供の自殺は小学生5、中学生34、高校生98人で計137人(2004年)。
●練炭自殺が流行し2004年は約50人。
●自殺者は公式発表で(前年比+12%の+2、000人)34、427人だから、実情は1日100人以上だろう。1978年から
  始めた統計では最高に達してしまった。内、男は70%で(40歳以上は75%)、世界一だった男の平均寿命は
  @アイスランドA香港に次いでBに落ちた。

  東京都の隅田川は「春のうららの〜」というほのぼのとした風情から、年間100人は水死自殺者がでるといわ
  れる哀れな川になってしまった。

 これらの多くが、ダメな為政者とそれを支える稚拙な国民のツケを払わされているお粗末な構図になる。多分、例え息子や娘等がリストラされて路頭に迷い、自殺しても、投票先は変わらず、日本の政治の変化は遅い。政府の対策も無策で、地球は経済戦争まっただ中、というのに国民は辛いヨ!

 通訳の呂さんによれば、都市の大半の家庭は冷蔵庫、テレビ、洗濯機はそろったという。しかし、それでも、まだ貧しい。貧富の差は当 然のごとく拡大している。黄土高原に多いといわれるが、就学できない子供達が全土ではまだ1割もいるという。生産性導入の国営企業は 余剰労働者を生みすべての産業で人海戦術をとって受け皿を用意しているが、まだ不足している。そのためか観光政策では、日本人には15 日以内のビザ免除等を実施し始めた。今年の秋の中国政府の最優先項目の一つは、東北部3省の経済開発である。中日は中日経済友好協会を 設立し、瀋陽市は中国有数の自動車関連企業基地にしようと、インフラの整備や初期投資から3年間は無税にする等の誘致策を展開してい る。旧侵略者の日本には、今では親近感を抱く人の方が圧倒的に多く、投資環境は良いという。
 そして、生活物資さえまだまだ乏しい中国の需要は膨大であり、インフラを含めて将来性は限りなく明るい。著しい貧困・混乱期には一 党独裁もやむを得ず、人権侵害等の面はあるものの、効率的な面も見逃せない。都市計画等は日本と比較にならぬほど簡単に、安く、理想 的に進む。それはそのまま国民の利益になる。当面は共産党独裁で行くだろう。やがて中産階級が増え、彼らが自由を求め、複数政党の時代がくるだろう。それを、大混乱なく次へ移行できるか。社会主義国キューバは、すでに野党誕生の機運にてこずっている。それには、このまま民族の団結を維持・向上させて、人権や自由を尊重し、アメリカやEUヨーロッパ連合等のように繁栄するか、旧ソ連や旧ユーゴスラビアのように瓦解して混乱と貧困に戻るか、中国人の意思と能力が試されている。

 北朝鮮の将来は、もちろん彼ら自身が決める問題である。現在、154か国と外交関係があるといわれており、自らは完成された社会主義国 と自負しており、外国人には関係ない事項である。ただ、このままでは国の衰退を止められず、経済不活性から石油等のエネルギーの購入 資金も抑制され、経済は一段と苦しくなるだろう。かつて、米国から石油の禁輸制裁を発動されて戦争に踏みきった日本のように、暴発し ないことを祈るのみである。
 それはそれとして、北朝鮮の未来は、現実的には中国の出方にかかっていると思う。同族である朝鮮族を国内に多く抱えて、隣国としての付合いの歴史は長く、朝鮮戦争では多大な犠牲を払い、最長の国境を接し、最大の支援国であり、中国の大きな関与ぬきにはあり得ないだろう。中国が納得する"あり方"を模索するのが現実的である。米国は海を隔てていても、目前のキューバに核配備となれば穏やかではない。これと同様に、もし北朝鮮に米軍が核を持ち込んで駐留するようなことになれば、中国も看過できないだろう。北朝鮮の核や長距離ミサイルの保有は中国としても避けたいので、この点は米日韓と同床同夢である。いずれ中国は、調整役から自らの重要案件として、その役割を果たすと思う。

 日本は、北朝鮮を含めて、近隣国の繁栄に積極的に貢献すべきである。ましてや、かつて24万人といわれる朝鮮人徴用をはじめ多大な迷惑と苦痛をかけた国である。その償い は、迷惑や苦痛の度合いと日本の国力に応じて当然なされなければならないし、それも可及的速やかにやらねばならぬ。朝鮮戦争時の背景 (連合国=米国の言い分)という歴史の呪縛に、永遠にしばられているのは賢明ではない。近隣国とはあらゆる障害を克服して良好な関係 に導くのが為政者の努めである。これら近隣国との戦争抑止は最優先課題であり、積極的に平和の構築をすべきである。1950〜2004年の直接経費のみの防衛予算を単純に積算すると123兆円。敵を醸成・温存してこれからいくら増やすのか不明だが、賢明な改善策を模索すべきだろう。

 私には夢がある。
 現在、日本は世界で唯一国交がない独立国・北朝鮮と正式に国交を結ぶ。そして、日本から車で韓国、北朝鮮、中国---ヨーロッパへドラ イブし、また帰ってくることである。それは単に私自身のみならず、東西に開かれたこの新ルートを、世界の人が「観光ロード」「物流ロ ード」等として行き交い、それぞれの国々に経済的な恩恵をもたらし、文化の交流で平和の維持・強化につながると信ずるからである。こ の旅はその序曲である。

・濁った鴨緑江をまたぎ、北朝鮮上空へ。地上が手に取るように見える。中国の農村に比較して家屋数が少ない。家屋が整列されている。 屋根はすべて土色。煙がない。車が走行していない。舗装道路が少なく、砂利道が大半。ハゲ山が多い。日本海沿岸の港では、船が1隻の み尾を引いていた。

・日本の領海に入ると、船が多い。土曜日は船釣客がでるためか。人家は密集し、屋根の色は万華鏡を覗くごとし。平野の人口密度高し。 やがて富士山の姿に、「ここは日本だ」と確信させる。かつて約9年間、世界をドライブして韓国から飛行機で帰国したときも、同様な感 慨を抱いたのを思い出した。満足な旅だった。

エピローグ

・この旅の直接のきっかけは、私にとっては2000.5に、私の勝浦宅に藤間夫婦、娘さん、賀曽利隆さんを呼んで歓談したしたときの話が元である。私は、『世界を車で走った。しかし現在は、まだ日本とヨーロッパ間のドライブは政治的な理由等で不可能である。ロシアは横断できるが、まだ一般的ではない。そこでなるべく早く、誰でも車等で日本、韓国、北朝鮮、中国をとおってヨーロッパにゆき、また帰ってこられるようにしたい。昔、ユーラシア大陸に網の目のように張り巡らされたシルクロード時代は陸の交易が活発で、皆が栄えた。今日でも、「観光ロード」「陸送ロード」といった趣で各国を車等で自由に走れれば、世界は経済的に潤い、文化交流が促進されて相互理解が育まれ、平和の維持・強化に貢献するに違いない。そんな世界に早くしたい。私のホームページでも宣言しているように、その先駆者になりたい』といった。
 そこで、藤間さんが「中国の旅は、中国に強力なチャンネルあり実績がある俺にまかせろ」と。
 賀曽利さんは、かつて高校生時代に勝浦の海岸で友人と海を眺めながら、「いつか世界をオートバイで旅したい。絶対するぞー」と決意 したという、その思い出の地である。そして、世界126か国で57万kmも走っていながら、中国東北部はまだ走っていなかった。北朝鮮国境 沿いもまたしかり。そして、「皆でアジアをドライブができたらいいね」、という結論だった。

 私と賀曽利さんは冒険ドライブ仲間で、雑誌の対談等で面識がある。賀曽利さんは1968年、初めてアフリカドライブに友人と日本から船 ででかけた。その船には、藤間さんも乗っていた。「とりあえず、おじさんがいるブラジルに行ってから世界を歩こう」と。2人はそれ以 来の友人である。
 私の妻がヨーロッパに旅行したときのコンダクターは、藤間さんだった。それ以来、家族ぐるみの友人である。

 というわけで、中国ドライブの話はいったん藤間さんに預けられたかたちになった。が、しばらくは忘れさられていた。北朝鮮は政治的 に無理だった。韓国もいろいろと制約があった。中国はオートバイや車の持込を禁止しており、運転免許証も中国で取得したもの以外は通 用せず、頓挫していた。
 一方、賀曽利さんは世界の多くのルートを走り、新たな旅先を求めていた。そして、2003.1.30、突然、賀曽利さんが藤間さんに電話し、 瀋陽から北朝鮮のピョンヤンにオートバイで走りたいから相談に乗ってくれと。それから、藤間さんは本格的に長年の仕事仲間である中国 瀋陽市中国旅行社の王さんに仕掛けた。その後、王さんは、一時"スズキのコピーをつくっている偽の合弁会社"にオートバイの無料提供で だまされていた。これを、バイク雑誌「月刊ツーリングGO!GO!」で発見した日本のスズキがことの真相を話し、コピー会社との話は解除 した。その後、賀曽利さんと藤間さんは、静岡県浜松市のスズキの本社とかけあい、中国の正規の合弁会社である済南軽騎鈴木摩耗車公司(済南スズキ)にオートバイ無料提供等をかけあった。
 その間、テレビで「北朝鮮は、韓国から北へ続く鉄道の線路をつないだ。北朝鮮は、韓国から中国までつながる西海岸沿いの道路を整備 した」というニュースが流れ、私は藤間さんに電話した。すると「丁度、自分も見ていたよ。例の話、なんとかやってみるよ」と。
 ところが、この企画が具体化しないうちに2003年春、中国ではSARS騒ぎで観光不能になった。藤間さんは病気になり手術。また彼の 母が亡くなり、葬式等で時間がどんどん経過した。
 しかしこの間も、賀曽利さんから藤間さんに、「中国の旅をぜひ段取してくれ」と強く催促していた。「賀曽利に頼まれたら、イヤとは いえないよ」というほどの仲である藤間さんは、病み後も中断せずに動いていた。そして、遂に中国の済南スズキともOKを取りつけた。 特別な運転免許証も王さんの力で発行してくれることになり、ドライブ予定全域の人民解放軍の許可も見とおしがついてきた。
 そして、9月になり、すでにバイク雑誌「月刊ツーリングGO!GO!」を通してライダーを集めていたので、急に「やるぞー」と私に声が かかり、待ってましたとばかりに参加した。
 私は荻野さんを誘った。たまたま彼は全世界の独立国と統治領を併せて242か国訪問済で、ギネス記録突破目前であった。さらにユニ ークな地域への旅を求めていたから、望む所だろうと思った。これが当たりで、皆がうまく収まった。

 私は世界ドライブ中に、当時ヒッチハイクをしていた荻野さんとブラジルのイグアスの滝で会った。数年後は、アフリカはザンビアの首 都ルサカの路上で偶然会った旅仲間である。そして、私がネパールで「最後の大陸オーストラリアに行こうか、断念するか」と迷っていた とき、天与の声を届けてくれた恩人である。荻野さんは「赤軍等の悪影響で、日本人はオーストラリアのビザが取れず自分は断念したので 、ぜひ大内さんには行ってほしい」と励ますエアーメールを日本からくれた。これをきっかけに再考した。「まだ6大陸走破に全力をつか っていない。エネルギーはまだ枯渇していない。ここまできたら最後の最後までトライすべきだ」と。神々しいヒマラヤ山脈を仰ぎながら 、オーストラリア行を決断した。私にとっては6か国走破のギネス記録につながった"一期一会"の旅仲間である。イランでは泥棒に全財産 を盗まれ、またオーストラリアのビザ取得も至難で、ネパールでは愛車を売りに出したほど絶望的で、最後の大陸オーストラリア行を断念 しかけていた矢先の手紙は、私に幸運をもたらした。人の出会いは大切にしたいものだ。

 人が2足歩行を始めてから数百万年が経った。その間、人は常に本能・本性に基づいて、国境のない地球を地の果てまで自由に闊歩して きた。今日、人は狭い地域に定住を余儀なくされているが、DNA(遺伝子)が引き継いでいる本能・本性は野生動物そのままであり、地球闊歩の夢や見知らぬ土地への好奇心は誰もが持っているものである。今回は、車でのドライブはできなかったが、野生動物の一員であることを忘れてはいない。いつまでも鷲のように、研ぎすまされた目を失わず---、地球ドライブの夢はつづいている。

・ダイヤモンド社の地球の歩き方シリーズ「大連と中国東北地方」は参考になった。

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