ヨーロッパ
1.英国、南欧 2.シシリー島から北へ 3.北欧へ 4.悲しい出発 5.ベルサイユ宮殿
1.英国はレンタカーで北はネス湖ヘ、南はドーバーからプリマスを周遊した。出発地ベルギーの首都ブラッセルから、スペインのアルヘシラス港へ
2.南欧と中欧走行ルート
3.中欧と北欧ルート
4.最初の難関はカルネの取得だった。ところが、ベルギーの自動車クラブは、私に発行してくれなかった。ヨーロッパと北中米大陸以外は入出国に際してカルネが必要で、もし私が開発途上国等でカルネに入国印を押してから車を売ると、その国は出国印のないカルネの発行元に関税相当の高額な請求をするシステムになっており、その費用の回収ができそうもない外国人には発行しなかったのである。世界をまわれるカルネが取れず、地球ドライブをあきらめて「カルネなしでも回れる国だけの、悲しい旅立ち」となった。日本の家族や友人には、出発後わずか6か月間で「世界ドライブ断念」の便りをだした。将来性があり、居心地がよかった会社をやめ、必死の想いで貯金して買った50坪の土地を売り、すべてをかけた計画が早くも頓挫して、できれば消えてしまいたい想いだった。
車の改造は内装だけで、2本の鉄棒にキャンバスを張ったベッド、マイケルの母が縫ってくれた運転席と後部を仕切るカーテン、床にカーペット、車内灯をかける針金を天井に、中古車の走行距離計は左前車輪の中央にあるワイヤーをドリルでくわえ、ゼロに戻した。
それにしても、最初の運転は、小柄な身体には戸惑った。左の運転席に座ってハンドルを握り、左足を精一杯のばしてクラッチペダルを踏み、右手でギアーを操作すると、腰は浮くし、手が届きにくいほど、全体に広く大きいのである。この後は、座席を最大限低くし、少し前にだして運転操作を楽にした。車内の荷物の定位置が決まったのは、いろいろ経験をして1年後位だった。
5.都会の観光は、車中にベッドを備え宿泊費無料、移動自由で最高である。
6.ベルサイユの天井絵7.暖かい日の朝食は外8.南仏 9.les Baux de Provence10.Stes Maries de la Mer
6.ヨーロッパの文化遺産には圧倒される。ロンドンの大英博物館---、パリのルーブル美術館・凱旋門・エッフェル塔・サンサクレ寺院・コンコルド広場---、マドリッドのプラド美術館---。
7.炊事・暖房用のブータンガス12kg入りボンベとレンジで、料理は自在にできる。
8.コートダジュールは乾燥地で植物が少なく、その分青い地中海が映えるというもの。マルセイユ、カンヌ、ニース、モナコ、モンテカルロ、イタリアのメントン、サンレモへ
9.ローマ時代の山頂の城「レ・ボゥ・デ・プロバンス」
10.「サント・マリー・ドゥ・ラ・メール」。南仏は米の産地で値段は日本の10分の1だった。ここには野生馬がおり、狩猟や釣りで有名な海浜地で、毎年世界のジプシーが集合する。私もジプシーのようなものなので、この旅が成就するように参詣?した。
11.中世に逆戻り? 12.石の家 13.アルハンブラ宮殿 14.早くも交通事故 15.アルヘシラス港
11.歴史を感じさせる家並み
12.コンクリートづくりと比べれば風情がある。
13.イスラムの栄光を今に残す。
14.スペインの南部で、左折しようと道路の中央線右端側に停車中、酔ったトラックに追突された。警察に届けでたがウヤムヤ。これでさらに、世界ドライブは難しくなった。
15.北アフリカへのフェリーの発着港から、イギリス領タンジールを望む。
16.イタリアの豚の丸焼17.サンマリノ国 18.旧ユーゴスラビア 19.ドブロクニクの市場20.ギリシャは観光国
16.豚が忌み嫌われている北アフリカから、イタリアのシシリー島に渡ったらすぐこれでは---ショックが大きかった。
17.イタリアの中にある小国は海抜738mのチタノ丘が素敵。61平方`の国土に人口約2万人。
18.釣竿なんかいらない。平和があれば良い。ところが、地元の人を私の車に乗せてあげたら(勿論タダで)---夜、楽しみにしていたトランジスターラジオが盗まれているのに気づいた。
19.かのアレキサンダー大王も、風光明媚なこの町・入り江がお気に入りだったとか。かつて海洋貿易と塩田で栄えた城壁港湾都市は、世界遺産に登録済み。
20.世界から観光客を迎えたい日本では、観光客に対してどれだけのもてなしをしているのだろうか。国際空港では、ウエルカム・トウー・ジャパンのポーズは好評か?(2004年の日本人出国者1683万人、外国人入国者した675万人)
21.マラソンの発祥地22.女は入れない修道院 23.イスタンブール 24.スイス界隈の春山25.昼は最高、夜は極寒
21.マラトン。この旅もマラソンになるので、無事ゴールにたどり着けるように祈願した。距離は、それまで約40kmで開催していたが、1908年の第4回ロンドン大会後の実測が26マイル385ヤード=42.195kmだったので、1924年の第8回パリオリンピック大会から適用された。
22.ギリシャ・アトス半島のギリシャ正教修道院は女性立入禁止。修道僧は、他のギリシャ人同様イカ・タコ料理が人気だった。
23.ガラッタ橋横の魚市場。大勢の釣人が橋からアジを釣っていた。う〜ん、この店構えや臭いはアジアだね。
24.まことに美しいマッターホーン
25.夜はあまりの寒さに眠れず、ワインを飲んだら悪酔いして、雪原をのたうちまわってしまった。
26.独のハンブルグ 27.オランダ 28.旧ベルリン市の国境29.旧東独の国境検査 30.東独の知人
26.レーパーバンのその名もエロスセンターで、世界の美女がお待ちしておりま〜す。公娼制度は、ほぼ世界の半数の国で営業中である。この入口では、中高年のお母さん4〜5人が、「お父さん、いってらっしゃ〜い」「しっかり頑張って〜」等と夫達を冷やかしていた。お父さん達は、少し照れながらも、嬉々として入ってゆくその明るい光景に、あ然とした。日本が暗すぎるのだろうか?
27.5月のチューリップ畑
28.旧チェックポイント・チャーリー。こちらの西ベルリンは米英仏が、今は無き壁の向こうの東ベルリンは旧ソ連が管理していた。まさに東西冷戦の接点だった。じつは、ハンガリーでは、旧西ドイツに脱出したいという旧東ドイツの若い女性ヒッチハイカーを乗せた。狭い我車に隠すのは無理で、困って首都ブダペストの日本大使館に相談にゆくと「シー!館内には盗聴器がしかけられているかもわからないので、庭で話そう」という。外にでると「危ないからかかわらないほうがよい」と、予想どおりのアドバイスを受けた。もし、本当の脱出希望者ならかわいそうだとは思ったが、手助けは不可能なので下車してもらった。彼女は泣いていた。当時は、ユーゴスラビアから比較的容易に西側へ脱出できるとうわさされており、東側の脱出敢行者の多くは「ユーゴに旅行する」、といって外国旅行のふりをしたと聞いた。
29.車は壁の西ベルリン側に置き、東ベルリンに3日間通った。3日目には出国時に、パンツ1枚にされて徹底的に調べられた。東ベルリンでは反体制家・東西ドイツ合体促進家・自由主義主張者等といわれていた歌手ビエルマン氏と会っていたので、このような検査があったのかもしれない。後に、この壁を超えて自由な西側に逃亡しようとして射殺等された人は588人になったという。
また1日につき5マルクの強制両替があり、特に買うものがないのでソーセージを買って西にでようとしたら、持ちだし禁止品。それなら「腹に入れればいいだろう」と開き直り、恥を忍んで観光客前で食べ始めたら、役人も困りはて「いいから持ってけ!」と。当時は東側の技術・経済力・その他を西側に知られたくなく、こんな規制もあったのである。
30.旧東独の知人ライマー・ギルゼンバッハさんとジプシーの友人宅へ。彼いわく「先の大戦でナチスは大量のユダヤ人を殺戮したが、この影でジプシーも約20〜40万人殺した。この事実を風化させたくない」といっていた。日本のマスコミでは、一度もこの視点の報道に接したことはない。
31.マイケルと久子さん 32.バイキングの船 33.南極探検船フラム 34.いかだ=コンティキ35.北極圏入り標識
31.私が仲人役を務め、マイケルは日本人と結婚した。これが予期せぬ幸運をもたらした。1970年8月、マイケルが鬼才を発揮し、悲願のカルネを取ることができたのである。方法は、---まず私がブラッセルに居住する日本人商社員ということで、市役所で住所登録をした。つぎは、2つある自動車クラブの会員になった。しばらくしてから、「長期休暇中にイランまでドライブ旅行するので、カルネを発行してください」といって取得したのである。保証金は(車を他国で売却しないという保証のため)、保険に入る1万フラン(約8万円)だった。後は毎年マイケルが更新してくれ、私に送ってくれた。
32〜34.9月14日、ベルギーのアントワープ港からアメリカのシカゴに、10月28日に渡る船を予約した。それまでの間は、どうすべきか。北欧はドライブが不可能な冬が迫っていたが、せっかくの機会だから、ヨーロッパ最北端の地ノルウェーのノースケープにゆくことにした。ただし、冬季の道路閉鎖やアクシデント等で、ベルギーに帰れなくなる危険もある北欧ドライブは、日夜を継いで、1日に1000kmもドライブしたこともあった。紅葉があまりに見事で、まるで山火事のようなノルウェー。首都オスロでは、コンティキ博物館を見学した。真っ青に澄みきったフィヨルドは、巨大な鏡のようだった。ハイエルダール氏は、「南北アメリカ大陸の先住民はベーリング海峡経由以外にも、いかだ等で南太平洋諸島と南米間で直接行き来した」という仮説を証明するために、実際に当時風のいかだに乗り組んで完走=証明?した。ノルウェー人の先祖であるバイキングも、コロンブスがアメリカを発見するずっと以前に、アメリカ大陸と行き来していた、というのはよく知られていることである。
35.この時期から春までの北欧は昼でも薄暗く、車は常にヘッドライトを点灯している。
36.凍結道路 37.またも交通事故 38.ドアー周囲に隙間が39.ハニングスバーグ港40.人家は数軒のみ
36.北にゆくほど樹木の背丈が低くなり、やがて雑草や岩肌にコケがあるだけのステップ地帯になった。10月9日頃は、雪・凍結道・烈風でほぼ限界。烈風は小石を飛ばし、車は床に寝ていても再三浮き上がった。このように危険な状況なのに、このときはチェーンさえ持っていなかった。
37.雨でぬれて滑りやすく、まがりくねった砂利道の谷側にガードレールはない。この谷側を、ある程度のスピードをつけて下ってきたロングボディの大型トラックは、やわらかい路肩を避けて道路中央に突如突進してきた。山側を登っていた私は、一瞬、「接触すれば木っ端微塵になる!」と判断。瞬時に、このトラックと接触するのを避けるためハンドルを山側ギリギリにまで切ったが、路肩に突起していた大岩に右前部が激突した。結果は、無残にも右ドアーの開閉ができず、全体に隙間ができてしまった。
38.夜はマイナス10〜20度で寒風が入って寒くて眠れず、炊事用のガスを燃やしつづけた。
39.最北の島へフェリーで。寒さはあまりに厳しく、島のトナカイも、冬場はフェリーで南に移動していた。
40.”地の果て”という寂寥感が漂う。北極圏内の12〜1月は昼でも太陽がでず、6〜7月は真夜中でも太陽が沈まず、9〜4月は夜オーロラが観られることがある。
41.ノースケープ 42.白夜 43.ベルギーから米国へ44.再び地中海を北へ 45.リスボン
41.どんよりと薄暗く、強風が小石をもて遊び、荒波が岸辺を洗っていた。
ノースケープからの帰りはフィンランド、スウェーデン、デンマーク、旧西ドイツ、ベルギーを走行。樹木がないステップから針葉樹林をぬけ、アメリカゆきの船に置いてゆかれないように懸命に走った。スウェーデンでは、ときどき一般道が簡易飛行場になっており、簡易飛行場には必ず脇に誘導路があり、その先には、岩盤をくりぬいてつくった戦闘機等の格納庫があり、扉は迷彩色に塗られていた。200年間も戦争を避け、平和を維持してきたスウェーデン流を垣間見た。
42.真夏なら24時間太陽が沈まない。真冬は太陽が24時間見られない?
43.1970.10.28、アントワープ港からカナダ・米国間のセントローレンス川をさかのぼって、人車ともにシカゴへ。総排水量3万2千トン、全長210mのスーパーカーゴ「FEDERAL SCHELDE」は、主に自動車用鉄板を積んでいた。船の階級社会は厳格で、ギリシャ・トルコ・ユーゴ人等の下級船員は、船長・機関長・通信長・事務長と別の社会に区別されており、食堂・メニュー・便所・部屋等は別で、互いに顔を会わせる機会は限られていた。愛犬連れの船長の特別の計らいで、私は船長達と一緒のグループで、部屋も食事も幹部級で快適な船旅だった。想像するに、私が唯一の船客だったこと、船長グループ全員とも日本に寄港した際に印象や経験が良かったこと、日本という国の評判がベルギーで良かったこと、私の車がベルギーの輸出用だったこと---か。冬場で北大西洋は荒れるため、シーズン最後の航海だったが、案の定、37度もローリングして、一時は大きなうねりにまかせてただ漂っていたり、コースはクジラが見られるかもしれないといっていた最短コースの北から、少しでも波が穏やかな南に取ったりした。
44.1975.5.6、北アフリカからヨーロッパヘ、ポルトガルのオリーブ畑で一休み。5年弱がすぎ、車にも風格がでてきた。
45.この港から、かつてバスコ・ダ・ガマ達が出港した。ポルトガルの首都には、かつての冒険・探検魂が息づいている。
46.トレドの皿・壷売り 47.私を雇ってくれた人48.世話になった友人達49.下宿先からの夕陽 50.車の手入れ
46.スペインの5年後はかなり近代的なり、昔の風物詩が懐かしかった。でもシェスタ(昼寝)は相変わらず。
47.ドイツ・アーヘンの「FOTO STUDIO WELS」で1年間アルバイト。写真屋のプロが、この映りでは---申し訳ない!それにしても、100年前の街角の写真は---客先で健在かな?縦2m、横6m位の白黒用写真の印画紙に、小さなレンズとかぼそい電源で、1時間位かけてネガから光を照射し、西洋浴槽や長さ約2m半のにわかづくりの桶に張った現像液につけてつくった写真。退職時のボーナスは感謝しています。ただし、自分の不注意から、イランではドイツマルクの現金を盗まれてしまったのだが!
48.仕事探し、宿探し、遊び、きのこ採り、サッカー・カーレース・祭見物、車の修理等、何かと助けてもらい心からお礼を申し上げたい。ともに第2次世界大戦の敗戦国、という間柄か、世界中でドイツ人とはなにか親近感のようなものを感じた。
49.アルバイト中はとにかく貯金に専念し、ガールフレンドとの付合いも極端に抑え、指折り数えて出発日を待った。
50.エンジンは4基目の中古品に交換し、1976.10.3、中近東に向けて出発。気分は最高!