プロローグ
1.いはらき新聞 2.旧VW横浜ヤナセ 3.横浜港から一人旅 4.親族の見送り 5.母
1.出発前に故郷である茨城県の新聞に公表し、退路を断って自分を追い込んだ。「なぜ、旅にでたのか」「なぜ、無遅刻無欠勤で9年も務めた会社を辞めて、無謀とも思える旅にでたのか」。
■ 会社員のとき、25歳で横浜に50坪の土地を買った。やっと手に入ったその土地を目前にして、将来を思い浮かべると、うっすらと自分の一生が見えてきた。「ここに小さな家を建て、可愛い人と結婚し、狭いながらも幸せな家庭、安定した生活、家に帰れば誰からも干渉されない自分の城---」。子供時代は貧しかったから、地表に自分の一区画が得られただけでも想像外だったので、十分満足していた。
しかし、いざ目的を達成すると、これまでの人生設計でよいのかという反省もするようになり、新たな欲望、新たな人生の選択肢、新たな可能性等をさぐりはじめた。50坪というちっぽけな土地を前にして、こんな小さな世界に自分を閉じ込めて満足している、等という消極的な人生設計に迷いがでてきた。青年時特有の葛藤の日々が続いていた。
■ 会社では労務・人事等の仕事をしていたが、たいした人生経験もないのに、周囲や従業員に対して、さも人生経験が豊かで、山ほどの比較対象と比較した上での、自前の論のように説いたりして、常に欲求不満をかかえていた。このまま付け焼刃、借り物の真理、ごまかしの人生で、本当によいのか。
■ 自分にはたいした人生経験はない。だから、自分の判断の決定権を(営利企業・偏向した)マスコミや書物等に左右されやすい。(1969年の某大手新聞社は、中国の文化大革命を評価さえしていた。その革命下では、日本孤児は虐待され、諸葛亮孔明のゆかりの品も破壊され---。その後、時代が変わってからは、破廉恥にも手のひらを返すように某大手新聞等は賛美を止め、批判に変身した。イランのパーレビ−王時代も、ほとんどのマスコミは、現地政府よりのみのニュースで、市井に鬱積する不満は報道せず、あたかも反政府の動きはないかのような報道だった。ところが、パーレビ王を追放したホメイニ政権になると、昨日までのパーレビ政府よりの報道はうそのように消え、今度はまた新政府よりのみの姿勢になった。各国の真の姿を報道しないマスコミを信用した人は、そのたびかつて信じた真実を変更しなければならなかった。このようなマスコミの報道を信用した人は自業自得であるといえばそれまでだが、自分の目の涵養が大切である)
それでよいのか。自分がまず、さまざまな人生経験を積み、正しい判断に必要な多くの比較対象をもち、それらを考えて確固とした自分の意見をもつことが、心から満足する正道だし、最高の幸福への近道ではないか。若いときのあるべき姿は、それをやることではないのか。それは、まず衣食住の安定、といったものより価値があり、最高の人生、最大の満足を求めていた自分にふさわしいものだと思った。問題はそれを遂行する能力との兼ね合いだが---。
■ それには、世界を見聞して、いろいろ知りたい。公共の交通機関や宿泊設備がないところもゆきたい。飛行機や船での点の旅行では限界がある。徒歩・ヒッチハイク・リヤカー・自転車・オートバイ・車・キャンピングカーは、それぞれのロマン・利点・欠点を検討した。しかし、少ない予算でスタートできるものは、前進するだけで大半のエネルギーが消費され、長期間には不向きだ。車だ!全世界を見聞するなら、どうしても長期間になる。車なら、当初は資金がかかるが、どこにでもゆけるし、荷物も運べるし、長期間なら宿泊費がいらないから逆に安くつくはずだ。今は、それができる環境にある。仮に失敗しても、健康さえあればいつでも再出発できるだろう。ただ、世界は道路でつながっているのだろうか。観光目的で外貨に交換できるのはわずかだから(計画時は年間1人200→500ドル)、はたして海外で稼げるだろうか。カルネは日本で取れるか。誰か、これまでにやった人はいないか---。
■ そんな人生の岐路で迷っていたとき、”世界ドライブをベルギー人となしとげた”という岡野さんの週刊誌の記事を見たのである。最初に読んだときは”これだ!オレの人生はこれだ!”と、身体中に電撃が走り、なにか運命的なものを感じた。さらに、岡野さんの住所は偶然、私が住んでいた横浜の鶴見だったから、早速会いにゆき、根ほり葉ほりきいては可能性をさぐり、エスカレートしていった。これは、出発2年前のことだった。
もちろん、かつて読んだ朝日新聞の連載記事「ロンドン→東京5万キロ」(駐在記者の辻豊氏が、ロンドンから帰国にあたって仲間の土崎一氏とアジア大陸をドライブし、当時は話題を呼んだ)と、その後の単行本も心をわくわくさせて、下地として記憶に残っていたが。
[旅行中、そして帰国後も考えつづけた”なぜ、旅にでたか”は、こう考える。私の思考や行動のベースは、何百万年もかかって培われた遺伝子(DNA)によるもので、たまたま表面は現状の生活にあわせて生活をしているが、根幹の姿はいまだに石器時代の思考や行動とほとんど同じで、これが旅に駆り立てたのではないか。ようするに、人間は常によりよいものを求めており、現状固定がベストではないからである。また、未知への探究心・あこがれ、新たな発見の喜び等に魅せられて、かつて人類が地球上に拡散し、やがて宇宙をもめざしているように]
2.付け焼刃の修理実習ではあったが、おかげさまで完走できました。感謝しております。
3.リュック一つに度胸を詰めて出発
4〜5.母と妹。横浜での見送りは、母は泣きたくなるからと家にいた。満州で、終戦直前に夫が召集され、後に戦死。子供4人他を連れてなんとか帰国し、苦労して育てた息子と、またも生き別れになるかも知れないと大心配だった。その後、長兄夫婦、および兄妹が愚痴もこぼさず母を面倒見てくれ、私からの唐突な要望にもスムースに応えてくれたから、と、この旅の最大の応援者には心から感謝している。
6.ソ連船ハバロフスク 7.父の墓参りはできず 8.必ずいた添乗員 9.小便小僧といえば 10.出発時に恩師と
6.船員の独特の体臭、異国の料理の臭い、船酔い等で津軽海峡通過前にダウン。こんな程度でノックアウトとは---、とお先が真っ暗になった。「サブちゃん無理だよ!」といっていた友人の顔が、笑っているように思いだされた。
7.父の墓があるロシアのイルクーツク。ヨーロッパにゆく途中、ここで、家族初の墓参りの計画をたて、予約した。だが、ハバロフスクに着くと、早くも計画は変更を余儀なくされた。国営旅行社インツーリスト(旧ソ連政府機関)は、「イルクーツクで世界共産党大会があり、ホテルが確保できない」という理由で勝手に旅程を変更し、全員ハバロフスクからモスクワに飛ばされたのである。そのため、父の故郷の土や押し花等を持参し、親戚一同からの期待もあったが、あえなくご破算となった。さらに、楽しみにしていたハバロフスク→モスクワの「シベリア鉄道・1週間・1万kmの旅」も消えた。自由主義国なら訴訟ものである。イルクーツクで世界共産党大会が開かれるのは、何日も前からわかっていたはずなのに---。
1943年の満州での家族と、父の墓。私は1歳8か月で、父は2年後の1945年に、経営していた工場を閉鎖して関東軍に招集され、6か月後に死亡。墓に貼ってある金属製の名札は、ほとんどが(貧しい人々に)盗まれ、かろうじて残ったこの墓は、厚生省のパンフレットにも載っているほど、貴重なものになっている。なお、2001年には、長兄が初墓参りをはたした。この旅は私の旅だが、両親の血をひく私の旅は、両親、あるいは先祖の血のなせる行動かも知れず、ひょっとして、まったく記憶にない父のある部分が、私の行動につながっているかも知れないと思うと、感慨ひとしおである。
8.出発時の1969年は、旧ソ連ではおよそ24時間、必ず近くに見張りがいて、写真は自由にとれなかった。万一を考え、日記も書かなかった。この時代は緊張していた。出発前の正月休みには、茨城県から九州を1人車で周遊したが、カーラジオからは中国の文化大革命の騒ぎが流れてきて、某大手新聞等はこれを賛美していた。マルクスやレーニンの書物を読まなければ、知識人にはなれなかった時代である。
9.岡野さんの紹介を得て、まずベルギーの首都ブラッセルで、この道の先輩であるマイケルに会い、助力をお願いした。マイケルは、教えるのはいいが、資金はおろか、世界の共通語である英語も満足にできない私に、「YOU HAVE TOO MANY PROBLEMS」と評した。もちろん、英語の勉強は最優先だったから、今回はマイケルに会った後、英国での勉強を予定していたし、世界ドライブの情報収集、アルバイトで資金稼ぎ---をした。
10.世界をまわるには、車のパスポートともいえる「カルネ=無税通関書類」も必要。だが、ベルギーの自動車クラブは、外国人である日本人には発行しなかった。もし、私が開発途上国等で車を売ったときは、その国から輸入関税等に相当する損害賠償の請求がベルギーの自動車クラブにくるが、その費用の回収ができそうもない外国人には発行できないという。出発時である1969年の日本では、1人1年間の観光に使用できる外貨交換限度額は700USドルで、個人の海外ドライブはこの範囲で収まるわけがなく、日本自動車連盟(JAF)はカルネを発行しなかった。だから、日本から出発できなかったのである。もし、このような計画を実行するなら、外国で働くしかなかったのである。(国民栄誉称賞を受賞された登山家の故植村直己氏も、1964年に横浜から船でアメリカのロサンゼルスに向ったときは110ドルしか持ちだせず、海外でアルバイトを余儀なくされた。アメリカではこれが発覚して移民官に捕まり、日本に強制送還になるところ、理解ある人にめぐり会って穏便な処置で済み、なんとか海外登山を継続することができたのである。この時代に海外に雄飛した者には、似たような経験者が多かったと思う)
11.車の装備図 12.必要書類 13.マイケルと岡野豊氏
12. 1 旅券 2 注射証明書 3 国際自動車免許証 4 アメリカ・カリフォルニア州とアフリカ・ザンビアの運転免許証 5 各国ユースホステル会員証 6 ベルギーの自動車クラブ会員証 7 学生証 8 自動車保険 9 カルネ(自動車の無税通関書類)
13.マイケルは1960年6月、世界一周ドライブをめざして計3人で無料で提供されたVWバンでブラッセルを出発。後に他の2人が脱落してアジア、オーストラリア、日本→アメリカへ。1962年7月、アメリカからは日本で友人になった岡野豊さんと合流し中南米→アフリカ→ヨーロッパに1965年10月到着。当時の世界新記録をつくった。その後、岡野さんは無料で提供されたVWカブトムシを単独で運転し、アジアをまわって1967年1月に横浜港に帰国。この両名の絶大なる支援があったおかげで、私の旅は完成した。なお、マイケル達は「ガソリンとオイル等は各地でもらい、一滴も買わずに世界をまわった!」ので、この点は特筆しておきたい。またマイケルをこの旅に駆り立てた原因の一つは、イギリス人元空軍大佐で、第2次世界大戦の撃墜王の一人として名をはせたピーター・タウンゼント氏のドライブである。彼は、単身、ランドローバーで世界を一周し、ベルギーに一時住んでいたことから、マイケルは会いにいったという。