オーストラリアA(オーストラリア東)

41.隕石落下穴     42.同左         43.同左         44.トカゲの一種?  45.大陸のデベソへ

41〜43.ホールズクリークから、南のグレート・サンデー砂漠に148km入ると、隕石穴の規模としてはアメリカのアリゾナのに継いで世界第2の、ウォルフ・クリーク・メテオライト・クレーターがある。赤土とブッシュの大平原、ぬけるような青空、静寂の世界、そんな環境に、ぽこっと大きな盛土があった。盛土の上に登ると、約5万年より前にできた隕石穴が、ほぼ真円の口をあけ、静かに青空をあおいでいた。深さ49m、直径800m、円周2500m。底で声をだすと、こだまが帰ってきた。宇宙の彼方からやってきた使者の墓地くらいは、このまま砂漠のなかで、そっとしておきたいものである。
 しかし、月の表面には無数にあるクレーターが、地球には少ないということは---?

44.通常のトイレは当然やぶの中だが、ここではトカゲやヘビ等が危険で、周囲に何もないところが安全である。女性は、---他の方に目をそらしてもらって、車の影がよい。

45.タナミ砂漠を北西から南東に、西オーストラリア州から北部準州(ノーザン・テリトリー)に約1000km縦断して、人口13,000人のアリス・スプリングスへ。11〜4月頃の雨期は無理で、無線機がある現地のホームステッドに確認するとよい。周囲の山々がもたらす年間降雨量250ミリの雨は、東京の6分の1だが、それでも川をつくり畑を潤し、乾いた大陸ではオアシスである。そこから南西に440kmゆくと、エアーズ・ロックとマウント・オルガN.Pがある。オーストラリア大陸のほぼ中央にあるこの砂岩は、地表にでている一枚岩として世界最大だという。おへそのように、ぽこっと突起したオレンジ色の大岩は高さ348m、周囲約9km。約5億年より以前の地殻変動期に露出し、その後周囲は土砂で埋まって平原になり、大岩の深さは約7kmにもおよんでいる。平原につきでた岩や、上が平らなテーブルマウンテンは、他にいくらでもあるが、アボリージニー(原住民)の聖地でなかったり、ただの岩山なので無名に近い。

46.エアーズロック   47.頂上登山(登石?) 48.原住民の聖地   49.夕陽で更に赤く   50.ケアンズ

46.原住民は、この大岩が大陸のほぼ中央に位置することから「へそ」と呼び、信仰上、神聖な岩と考えている。岩面に描かれた無数の絵には、彼らにとってそれぞれ重要な意味があり、2500km離れたタスマニア島の原住民でさえ、ここの存在、そしてその意義を知っているという。最北部の岩場ンガルタワタは、観光客に対して立入禁止になっていた。

47.「これまでの登山記録は、ニュージランド人が24分で上り下りした」と、レンジャーがしかけるので、挑戦したら、2分で息が切れ、記録挑戦はあきらめた。見た目にはそれほどでもないが、クサリに頼らないと危険な急傾斜箇所もあり、これまでに風にあおられて6人が転落して死亡し、内1人は日本人だとか。頂上からは360度が見渡せ、西には同じく砂岩でオレンジ色したマウント・オルガの岩山が、北にはアマデウス湖が見えた。

 ここでの驚きは、頂上付近にある、小さなくぼみの底の生物である。乾燥しきった土のなかに、なんと生物が息づいていることである。たまに雨がふるとくぼ地に水が溜まり、乾燥した土がやわらくなる。そして、土のなかにあったエビの卵が孵化し、エビが泳ぐ姿が見られるという。エビの卵は、どこからか鳥や風が運ぶのであろう。それにしても、何か月、あるいは何年も乾燥した土のなかでも、生命が生きつづけることができるという事実には驚愕し、自然の営みの奥深さに脱帽した。

48.原住民以外にも見られる神聖な絵は、いくつかある。

49.朝陽は東から、夕陽は西から、それぞれ赤く染まる光景は、背景の空の色の変化とともに、自然のおりなすさまが美しい。ただし、どこの観光地でも同じだが、過度の期待は禁物である。

50.エアーズ・ロックから東に3000kmゆき、クイーンズランド州のケアンズへ。美しいグレートバリアリーフに面した港町はヤシ・バナナ・ハイビスカス・ジャカランダ(紫色の花が咲く熱帯樹)等が茂り、郊外はサトウキビ畑の海である。砂糖工場を見学したら日本に輸出しており、国際価格が下落して心配していた。南部では、しょうが工場も見学したが、やはり日本が第1の輸出先だった。ユーカリ以外の樹木を見るのは久しぶりで、それだけでも気持ちが豊かになってくる。海岸ではヨット、トップレスの海水浴客、アコーデオンを引くヒッピー等が、自由と豊かさを謳歌していた。船底がガラスになっている小型観光船でグレートバリアリーフの海底を除くと、サンゴ礁・魚・海草・貝・海亀等がきれいで、まるで竜宮城でものぞいているような気分になった。ただし、往復の連絡船とグラス・ボトム・ボートでは3回も船酔いして吐き、「観光は重労働である!」という感慨をしみじみ味わった。観光スポットは、ケアンズ沖のグリーンアイランド、タウンズビル沖のマグネティック・アイランド等とたくさんある。

51.海のパラダイス   52.最終地シドニー  53.ガールフレンド   54.ボンダイビーチ   55.新たな挑戦

51.クイーンズランド州のケアンズからビクトリア州のメルボルンまで、約3000kmの海岸ではどこでも見られる夢のような光景で、まったくうらやましい限りである。クイーンズランド州都ブリスベンの北のサンシャインコースト、サーファーズ・パラダイスというしゃれた名前の町がある南のゴールドコースト、ニューサウスウエルズ州のシドニー界隈では当たり前の光景である。週末はヨット・レジャーボート・海水浴・サーフィン・ウインドサーフィン・魚釣り客等が、きれいな海岸で遊ぶ姿は理想郷のようである。

52.1977年11月6日、最終地と定めたシドニーに到着。イランで泥棒に資金を盗まれなければ、当然ニュージランドにもゆきたかったが---、帰国費用も考えると限界だった。かつて、デンマークの建築家ウォツォンが設計した白いオペラハウスは、あまりにモダンすぎて当初は採用されず、彼は生涯見ることはなかったという。貝をモチーフにした、この見事な建築物の前で、エンジンを止めると、愛車は最後の息をひきとるように、大きく2〜3度身震いし、静止した。走行距離計を見ると、27万kmを示していた。ベルギーのブラッセルをでて約8年間、単独での6大陸マラソンは、ここで終わった。結果として、「車」という選択は正しかったと思うし、世界を見せてくれたVWに、感謝する。地球7周、借金なし。

 もっとも、今回はあなたと一緒にまわったわけですが、ご感想はいかがだったでしょうか。この旅では、地球の旅を楽しむとともに、ものごとを見る目に必要な比較対象をたくさんご覧になり、少しでも日常生活の公平・適正な判断に役立つならば幸いです。また、宇宙でたった一つの奇跡の惑星は、じつに素晴らしかった。この星に生まれたことに感謝し、これを大切にしてゆきたいと思う。

53.車は、世界を夢見る若いオーストラリア人が見てくれればいいと、シドニーの北約700kmの小さな町フォースターの、自動車博物館に寄贈した。車は輸入車としての手続きをとり、課税対象評価額は100ドルと査定され、輸入関税は60ドルだった。カルネは、発行元であるベルギーの自動車クラブに送ったが、なんと3か月間も書留手紙・電話・FAXのやりとりをして、やっと入手できたのは預けていた保証金25,000ベルギーフランの小切手で、シドニーでは現金化もドル両替もできなかったのである。当時のオーストラリアの銀行業務は国際的ではなく、種々の面で遅れていた。今ならEメールで簡単に連絡できるので、隔世の感がある。

 手元の残金は少なく、もし両替できなければ日本に帰るだけでギリギリだった。この苦しい間、得体の知れぬ私にお金まで貸してくれた写真のスーザン・ヘレン・スエニーには、非常に感謝している。ニュージランド人は、この国で許可なく労働できるので、彼女もこの地に6年前からきて働いている1人だった。

54.シドニー東岸のボンダイビーチでは、ゆでたエビ・ポテトチップス・パイナップルパイ・コカコーラ等で昼食をとり、何回か楽しい時間をすごした。2000年のオリンピックでは、ここでビーチバレーが開催された。

 まがりなりにも、この旅を完走できたのは、まず健康があったおかげである。日頃は、とりたてて考えもしなかった健康維持は、ふりかえって見ると、じつは本能的にやっていたようだ。睡眠だけは十分にとっていた。予算は極端にかぎられていたから、十分な栄養は摂取できない。それでも、最低限の栄養やバランスを考えて、物価が安い所で栄養と食料の補給をした。最低限の衛生管理にも、気を配った。古いものをたべて、何度も腹痛や下痢等を起こしたので、少しでも危険を感じたら、これを避けるようにした。

 もともと人間の身体は、途方もなく長い石器時代に培われたものである。だから、粗食に合うようにできてきたのである。少しぐらい栄養が不足し、種類がかぎられても、それに合うようにできているのである。逆に、石器式ボディーに、石器時代には考えられない高栄養価や化学品等をふんだんに詰めこめば、異常反応するのは当たり前で、大変危険である。肥満は、危険信号ではないのかな?

 精神的なものは、当初の新聞にも載せてしまったように、自分の人生はこれしかない、という初志貫徹の意思を強めていたので、あとは自分との戦いに明け暮れた。夢は、どんなに辛いことがあっても、持ちつづけた。この旅では、貧しかった少年時代の耐乏生活や、中学1年から6年間の、つらい朝晩の新聞配達やアルバイト等が役立ったと思う。能力が足りなければ、それまでの話である。ドアーは、叩かなければ開かれない。平凡な生活では一生、自分の全力を尽くす局面はそうないが、無い無い尽くしのこの旅は、イヤというほどあった。困難に突き当たれば、「天よ、我に七難八苦を与え給え」と、強がったりして見せた。さらなる極限状態では、運命を天にまかせてしまうと、あとは驚くほど気が楽になり、危険な状況を突破できた。銃を持った泥棒がうようよいる所では、銃弾を一発あびれば終わりである。しかし、そのような場所は極力さけ、あとは---開き直ってしまった。このような生活を長くつづけると、人間は野生化し、まるで野生動物のように、少しの音でも敏感に「安心できる音か!危険な音か!」と瞬時に判別するようになるものである。帰国後、「お前の目は恐い」等といわれたことがあったが、当時の写真を見ると、確かに鋭かった。

 それでも、生身の身体である。この旅ではカゼ、食あたり、発熱、目にばい菌が、ケガ、マラリア、痔等をわずらった。「親知らず歯」には約2年間悩まされ、最後にレントゲンを見せられるまで、原因が「親知らず歯」とは知らなかった。

 この旅を完走できた背景には、他にもいくつかある。かろうじて世界平和があったから、星の数ほどの親切な人々が世界中にいたから、家族の支えがあったから、日本の評判が良かったから、車の心臓ともいえるエンジンが回転しつづけてくれたから、致命的な交通事故に遭わなかったから、強盗に遭わなかったから---。

55.カルネの保証金を取り戻す間の3か月間、シドニー南部の海岸でハンググライダーの世界チャンピオンに会った。ビル・モイース親子で、父は高さ8000mまで飛んだ世界記録と、7年間の世界飛行記録を、息子は最近4年間の世界飛行記録保持者だという。残念ながら、何の記録か聞き漏らした。チャンピオンじきじきのご指導で、ハンググライダーに挑戦した。

56.奇跡のめぐりあい

56.シドニーでは愛車とキスして別れ、スーツケースを片手にグレイハンド・バスで4500km西のパースに向かった。旅が終わって将来を考えると、不安が増した。さらに、3か月も奮闘して得た虎の子の小切手は現金化されず、憂鬱きわまりなかった。シドニーに到着してからは気がゆるみ、再び吸い始めてしまったタバコは、またやめた。

 バスの車内には約30人の客がいた。途中で、シドニーからパースに自転車旅行中の2人組の日本人に会った。長旅のためか、周囲の人と世間話をするようになり、若い女性から「パースにゆくなら、私のおばさんの家にこない」と温かい誘いを受けた。

 おばさん(アン・コルクホーンさん)の家にゆくと、「出国日まで、家にいていいよ」と歓迎された。さらに、夫(ロンさん)は、たまたまニューサウスウエルズ銀行の行員だった。ダメとは知りつつ、さっそく現金化できない25,000ベルギーフランの小切手を見せて、解決策がないか彼に預けた。その日は、アフリカで知り合った友達が迎えにきたため泊まらず、現金化の結果は電話で翌日に聞くことにした。

 翌日は、友人達とヌーディストビーチにいったので忙しく、小切手はこれまでの経験から可能性がうすくあきらめていたので、電話をかける約束を忘れてしまった。ロンさんには、頼んでいながら大変申し訳なかったが。翌々日、友人とフリーモントルの博物館からかえり、友人宅で昼食をしていると、ロンさんから電話があった。すると、「あの小切手、いつでもUSドルでもオーストラリア・ドルにでも現金化できるよ。なんなら、今日USドルの旅行小切手にしておくから、あす取りにくるように」という。これには、すっかり驚いてしまった。

 翌日、旅行小切手740ドルをやっと得た。お礼に、一家をコリーダというレストランに招待し、生ガキやステーキをごちそうして、感謝の言葉を述べた。会食後は、この日が出国のための飛行機の予約日だったので、飛行場まで送ってもらい、午後2時30分に飛びたつことができたのである。

 グレイハンド・バスで声をかけてくれた、写真の右側ジャネル・レオパルディさん。あまりの幸運に、「彼女は、天使ではないか!?」と、機中でもしばし興奮がおさまらなかった。アルバニー出身で、パースのテクニカル・カレッジで、ファッション・デザイナーを勉強するといっていたが---。

 この幸運な1件は、この旅のある面を象徴していた。つまり、自分なりに万全の準備をしたが、それでも問題はつぎつぎに起きた。そして、あの手この手で全力をつくした。多くの問題は解決した。だが、それでも壁は厚く、解決しないものがあった。もちろん、なお、努力した。それでもダメだった。やがて、ギブアップ寸前、解決策が必ずでてきたのであった。過去に起きた事柄に対して「もし、---だったら---だった」等と、ある条件をあてはめても意味はない。不運も数知れずあった。しかし、不思議な幸運が、旅を完結に導いたことも確かである。以下に、この旅の「もし、あのとき---ならば、この旅は断念していただろう」という、決定的な幸運の主なものを、時系列に羅列しよう。
 もし、

 @ 岡野さん、マイケル、ジョン、セツコさん---が助けてくれなかったら---。
 A スペインでの追突事故で、後部をあと10cm深くえぐっていたら---。
 B サハラ砂漠でエンジンが落下したとき、エンジンが壊れていたら---、アルジェリアの日本大使館庭
   で、1本の鉄パイプを失敬してこなかったら---。
 C ノルウェーで、下りの対向車が私の方に10cm寄ってきたら---。
 D アメリカのシカゴで、少ない所持金を理由に入国を拒否されていたら---。
 E カリフォルニアで、カラー写真作成の技術をマスターしていなかったら---。
 F アメリカへの出稼ぎのため、コロンビアで合法的に車を置けなかったら---。(事情が複雑なため、
   割愛した)
 G チリでのエンジン割れのとき、友人トニーがベネゼエラから帰っていなかったら---、彼に彼女がい
   なくて、彼女の父がVWの社長でなかったら---、物凄いインフレーション下でなかったら---。
 H カルネが使えないアルゼンチンに入国できなかったら---。
 I アフリカのアンゴラの南アフリカ大使館で、ビザ申請を拒否されていたら---。(割愛した)
 J ベネゼエラの首都カラカスで、ドイツ銀行のピーターに会わなかったら---、彼の妹夫婦が南アフリ
   カにいなかったら---、夫がVWに勤めていなかったら---。
 K 南アフリカの現像所の社長が弁護士まで使って、当初断られた私の労働許可証とビザ取得を、2回
   もプレトリア政府じきじきに執拗な交渉をしなかったら---。
 L モザンビークで泥棒に現金等を車中から盗まれたとき、すべてを盗まれていたら---。
 M ジンバブエの首都でなく、へき地で痔の手術という事態になっていたら---。
 N エチオピアでユーゴ人ヒッチハイカーを乗せなかったら---、彼から「乾季は、スーダンから西アフ
   リカへの横断ルートがあるかも知れない」という情報を得られなかったら---。
 O モーリタニアのサハラ砂漠で、鉄道の線路に乗りかかっているとき列車がきたら---、4台のVWが
   こなかったら---、無視して通りすぎてしまったら---。
 P モーリタニアのサハラ砂漠で方向を失い、遊牧民に聞いた方向にゆかず、自分が選んだ方向が間違
   っていたら---。
 Q イランで、車ごと盗まれていたら---。
 R ネパールで、オーストラリアのビザが取れなかったら---。
 S シンガポールで、オーストラリア行きの船に間に合わなかったら---。

  旅は楽しく、また苦しい。と同時に、学ぶことも多い。”幸運は、努力の末に与えられる”といい切
 れるものではないが、”努力なくしては、幸運はない”ことは確かのようである。
  これにはさらにおまけがある。2007年、日本は米国、ドイツ、カナダ、ベルギー、フランス等と年金  に関する協定を結んだ。「互いの国で働き年金を収めたら、老後は自国で受給できる」というので、米  国とドイツを申請したら受給できるとのことである。

オーストラリア@(オーストラリア西)に戻る

このページの頭に戻る

表紙に戻る