アフリカB(スーダン〜モロッコ)

86.首都ハルトゥーム  87.テレビ出演     88.貨車で砂漠横断   89.同左        90.固いアリ塚

86.首都は、実際に白濁しているビクトリア湖からのホワイト・ナイルと、白濁していないタナ湖からのブルー・ナイルの合流地点にある。まず、この国で強い印象を受けたのは、最下貧層から政府まで、首都から僻地にいたるまで、とにかく、みんなが大変親切だったことである。私の経験では世界一であり、スーダン人の心の豊かさを賞賛したい。例をあげれば、それだけで1ページが埋まってしまうので、大部分は割愛するが、とにかく素晴らしかった。エチオピアからスーダンにかけての悪路では、足のかかとに深い傷を負ったが、国境警備隊は手当をしてくれ、破傷風等を免れた。砂漠ややぶの悪路では、1〜3のギアしか使えなかった。これでは計算以上の燃料を消費し、不安が募って道路建設に従事していた、中華人民共和国人の飯場兼建設基地にゆくと、無料で20リットルくれた。

 つぎの、テレビ出演もそうである。他のイスラム教国は世間並であるが、これはスーダン流イスラム教のせいか、中華人民共和国や日本等の諸外国が、種々の援助をしていることに国民が感謝している表れか。しかし、ラジオの普及は低く、そんなことはまったく知らない人人人---も親切なのである。スーダンの文化・人間性が高いのか。

87.スーダンから西へゆくには、砂漠を横断しなければならない。だが、私の車では危険すぎた。そこで、これまでの情報どおり、西端に近いワウまで鉄道の貨車でゆき、そこから中央アフリカにゆこうと計画した。しかし、当時は、南西部では雨がふらず、飢餓民救助等で貨車はフル稼働しており、一般客は利用できなかった。

 そこで、一計を案じた。青少年省を訪れ、この旅の目的、これまでの経路、これからの計画等を話して支援を頼むと、道が開かれたのである。政府関係の雑誌に寄稿すること、同省提供のテレビに出演すれば100ポンド=275USドルくれ、鉄道の駅長に積載してくれるようにテレックスを打ってくれる、というのである。100ポンドは、ラクダが2頭買える価値があった。

 さっそく、記事を書き、テレビ出演の準備をした。ついでに、世界中の日本の在外公館の方にお世話になったお返しもしようと、日本大使館に話をして、日本PR用のポスター等を借り、テレビ出演となった。その後は、テレビ放映とは無関係にガソリン、オイル、煙草、お金、コカコーラ、ナツメヤシの実(デイツ)、熱い紅茶---等の施しを、じつにさまざま人々方から受けた。安食堂で食事後、代金を払おうとすると「代金は、先ほどでていった、他の客がお支払いになりましたから、結構です」という。こんな親切心は、経験したことがなかった。

88〜89.アフリカ西部への段取りが整い、南部のコスティ駅から車を貨車に積むため、首都を離れようとドライブを始めると、熱がでてきて身体がだるくなった。我慢の限度を超え、病院にいった。医者いわく「立派なマラリアです」。一瞬、「これで旅も終わりか」と、オロオロしていると、「心配しないで、我々もみんな経験者ですから」。入院すれば安心だが、出費がかさみそうで、自宅(車)療養にした。万一を考え、人がいるユースホステル前でキャンプした。予防薬を飲んでいたおかげで軽くてすみ、5日目は出発できた。アフリカ人はたいてい経験済だから、これでやっとアフリカ人の仲間になれた、アフリカを旅できる資格ができた、と思った。ちなみに、帰国後は献血不適格者になってしまった。

 貨車から見る半砂漠の悪路は、「やっぱり無理だったな」と思わせた。多分、大型トラックか4輪駆動車なら可能性が高いだろう。貨車上でのゆれ方はがひどく、車中で寝ているとベッドから落ちそうで、車が貨車から転落しないかと心配になり、途中でワイヤロープで補強し、固定を強化した。問題は大便時で、車両を汚しては申し訳ないと、連結器にまたがってお尻を空中につきだしたが、ゆれるたびにハラハラドキドキした。

90.中央アフリカに入ると、雨期で通行不可能だった後で、しばらく通行する車がなかったのか、路面にまでいろいろな形をしたアリ塚が立っていた。最初は遭遇するたびに車を止め、ハンマーで壊して前進したがきりがなく、その後はアリ塚の手前で車をいったん止め、ファーストギアでゆっくりスタートして、バンパーでじわっと崩して前進した。

91.野焼後のアリ塚  92.乾燥期のワダチ道 93.やっとバンガスへ  94.再び大西洋岸へ  95.トーゴの海岸で

91.中央アフリカは象が最も多く、欧米からハンターが高い料金を払ってでもやってくる。その証拠か、ブッシュの細道には象の糞も多く、乾燥して固くなっていた。ウォーターバックのような野生動物を、ときおり見かけた。その原野で、ときどき野焼があり、夜はバリバリとジャングルを燃やす炎に包まれないかと心配だった。アリ塚は、野焼程度には負けないだろう。

92.雨期等に、トラックの大きなタイヤがつくった深いワダチは、その後固まり、車底をこすって車を壊す。逃げ場がなければ、車底をこすって危険を犯すしか方法がないが、道の脇にスペースがあれば、サーカスまがいの運転をする。こういう地だから、村人はたまにくる車がめずらしいのか、必ず手をふり、こちらも手をふらないと申し訳ないので、そのたび手をふった。すると、わき見の時間がつい長くなり、ときには悪路に突っ込んでヒヤリとする。悪路では郵便屋もこず、村毎に郵便物を渡され、村によってはまとめて受け取る人がいず、ついに郵便物ごと、1軒1軒配達したこともあった。郵便物を委託した人は、へき地の宗教関係者が多く、シャワーや宿泊の世話になったので当然だったが。

93.”原始の悪路613km”と闘って、やっと文明の道にたどりつき、ホッと一息。車はいたるところが傷んでいた。

94.アフリカで、おそらく最も雨がふるドアラの海岸に到着。ドイツ人の海員組合が経営するシーメンズ・ミッションでプールに入り、とりあえずアフリカ横断を祝って、ビールで乾杯した。高温高湿は1年中で、不快指数はおそらく100近いと思われた夜は、暑くて眠れなかった。また、各家庭ではヤシ油で料理するから、その独特の臭いが鼻につき、食欲も減退。海岸では、夜がだめならと昼寝をきめこんだ。小さな河口には、トビハゼがいた。後ろは高さ4070mのカメルーン山で、高原地帯には牧場もある。

95.撃ち落された爆撃機等がジャングルに散見され、その原因の一つとなった石油地帯のビアフラ。一昔前の戦争の傷跡もさることながら、石油景気は原始のジャングルを切り倒し、大型トラックが細い道路を突っ走り、事故車は放置されて、凄惨な光景が展開されている。ある10km区間で放置車を数えたら、7台あった。運転者等はどうなったか。ナイジェリア(旧奴隷海岸)から→ダホメー(旧ベニン)→トーゴへ。トーゴの国境役人は、笑顔でココナツを割ってごちそうしてくれた。オイル景気は無縁だが、伝統の温かいもてなしが生きている。アフリカ西海岸一体は、女性が家督を相続したり、財布のひもをにぎっており、そのせいか、女の子達もしっかりしているように見えた。

96.ガーナの独立門  97.首都の野口英世像 98.鰹節作りの漁村  99.旧ポルトガルの要塞 100.マリの悪路

96.1960年、アフリカの旧植民地で黄金海岸と呼ばれた国は、トップを切って独立した。

97.アクラの「KORLEBE HOSPITAL」の庭にある。氏は、エクアドルで黄熱病等を研究後、この病院に赴任した。その後、光学顕微鏡では見えないウイルス原因説がでて、より設備が整ったニューヨークのロックフェラー医学研究所に戻って、研究をつづけようとした。だが、ナイジェリアのラゴスにあったロックフェラー医学研究所の出先機関に帰国挨拶にゆき、そこからアクラに戻る船中で発熱。さらにアクラには港がなく、船からクレーンで吊られて、ハシケに移されたときはあいにくスコールに見舞われ、ずぶぬれになって病状を悪化させた。そして1928年、コーレブーの病院で、51歳の命を閉じた。氏の病は黄熱病の疑いがあり、通常はすぐ火葬にするのだが、同研究所の強い要望で棺に密封され、船でニューヨークに運ばれて、すぐ埋葬された。

 黄熱病のワクチンは1939年頃完成し、私もアフリカドライブにあたっては2度予防注射して、お世話になった。氏が20歳の頃上京するにあたり、生家の柱に刃物で刻んだ「志を得ざれば 再び此地を踏まず」の意気込みは、旅行後に猪苗代湖畔の遺品陳列館で知った。私も旅行前には、「金なし、外貨なし、知識なし、カルネなし、車なし、言葉できず、単独で---」にもかかわらず、あふれる情熱だけで、新聞にまで公表して衆目にさらし、退路を遮断して決意を固めたので、その言葉を柱の表面で偶然見たときは、胸にこみ上げてくるものがあった。この決意と行為は、苦しいときの忍耐力につながったと思う。

 私はこのホームページで、夢に挑戦する人の”有言”と”実行”を勇気付けたいと思っている。そこには、自らのみならず、人々にも感動を与える、ものすごい感動が待っているからだ。

98.ナイジェリアの首都ラゴスでは、片目にばい菌が入ったのか見えず、痛くて、病院にいった。5日間で完治した。ガーナの首都アクラでは、マラリアを再発して熱をだした。静養するため、西部の海岸にあるディスクコブ村のレストハウスにいった。ここでは、ギニー湾で獲ったカツオを、高温多湿下でも保存できるようにと、日本と同じ方法で、カツオブシ手前の「ナマリ=生節」にしていた。マグロも獲れていた。

99.元黄金海岸と呼ばれた地だけに、要塞をつくってまで持ちだした宝は何か。黒人奴隷か。一説によれば、アフリカから連れだされた奴隷は1億人にものぼり、そのせいでアフリカの近代化が遅れたという。ここで獲れたイセエビ等で体力を戻し、発熱から3日目には、サハラ砂漠から吹いてくる砂嵐”ハマダン”のなかを、コートジボアール→マリに向かった。

100.首都バマコまでは、車がほとんど通らない舗装道路だった。空いている舗装道路は、収穫した麦等の乾燥と脱穀にも使われていた。道端のマンゴーの木の下では、小学校の授業が行われていた。ノート代わりの小板とチョークをもった子供達が、炎天をさけて学んでいた。ここのマンゴーは気候に合っているのか、大変おいしかった。
 首都を西にいくと、道路はすぐ悪くなった。どうしても1〜3ギアーでしか走れない。すると、暑さと悪路があいまってエンジンがたびたびストップした。そこで、夜走ったのだが、やぶのなかのワダチの分岐点には当然交通標識がなく、方向がわからなくなり、夜間走行は断念した。ついに、トコト駅で5日間待って車を貨車に積み、560km先のセネガルのタンバクンダ駅にいった。出費が痛かった。

101.日干しレンガ作り 102.サハラ砂漠縦断 103.鉄鉱石運搬貨物車104.救助してくれたVW 105.砂漠のお墓

101.マリ、ガンビア、セネガル界隈は落花生の産地である。貨物列車からは、乾燥した畑が黄金色に見えた。日干しレンガでつくった家。これは涼しいので、この地に合った素材といえる。ガンビアの民族衣装は鮮やかで、すばらしい。のどから手がでそうだったが、まるでスエーデンの植民地のように、大勢いるスエーデン人が買うため値段があがり、私には手がとどかなかった。その代わり、といっては何だが、日本の漁業会社でイシモチの塩漬けを20kgいただいた。最近のアフリカ産タコは、大半がガンビアからくるという。

102.車で、サハラ砂漠のどまんなかを横断するルートはない。地中海側と、サハラ砂漠以南の周囲には、横断ルートがある。縦断ルートの主なものは、5つある。私が調査した範囲内で、難易度が比較的低い順に北から南へのルートを記す。

 @ エジプトからスーダンヘ
 A アルジェリアのタマンラセットからニジェールのアガデスへ
 B アルジェリアのアドラルからマリのガオへ
 C モロッコからモロッコ領サハラのゲルタゼムール、モーリタニアのビルモグレン、ヌアクショット 
   セネガルのダカールへ。またはアルジェリアのティンドーフ、モーリタニアのビルモグレン、ヌア
   クショット、セネガルのダカールへ
 D アルジェリアのジャネットからニジェール、チャドへ
 私は、難易度が比較的低い@〜Bや、ほとんど無理と思われるDを避け、Cを選んだ。物価が高く、さらに輸入部品は高かったガンビアでは、やむにやまれず、コンタクトポイント等の心配な部品をたくさん買った。砂漠の大半は低速でしか走れず、ましてやVWは空冷のためエンジンが過熱しやすいので、空気取入口をひろくした。

 セネガルの首都ダカールの郊外にでると、はやくも砂漠である。モーリタニアに入り、首都ヌアクショットに着くと、砂嵐で前が見えず、吹き寄せられた砂で、街中の通行さえできない所があった。「ここでこの程度だから、サハラの心臓部に入れば---」と心配になった。当時は、奴隷制度が残っていていた珍しい首都だった。
 舗装道路が切れると、延々とつづく洗濯板のような波を打ったコルゲーション=砂利道になった。この道は、車のあらゆる箇所をバラバラにゆるめる。アタールをすぎると、前方に地平線まで砂の海が横たわっていた。問題はソフトサンドの巾である。比較的固く、ワダチが新しいところをサードギア程度で走る。小さな竜巻は問題ないが、大きいのは砂塵を数千キロ先の北欧、またはギニー湾まで運ぶ。ときどき遠くに黒い竜巻が見える。

103.モーリタニアの砂漠のなかに、純度約70%という鉄鉱山があるズエラット。ここで露天掘りした鉱石を、186両の貨車に乗せ、4台のディーゼル機関車で引いて、大西洋岸の積出港ヌアディブまで運ぶ。機関車上のクーラーの室外機の数が、暑さを物語る。
 アメリカの人工衛星が中央アフリカの上空に差しかかると、積んである磁石が乱れるという。計算では、日本の本州より広い、28万平方キロという途方もない未発見の鉱床があるという。

104.数mの巾のソフトサンド地帯は、速度をつけて突っ込めば渡れるので、ある速度を保った。それでも、10m以上位のソフトサンドにはつかまり、埋まっては砂をかきだし、タイヤの下に鉄のハシゴを敷いてゆっくり、1m1m前進した。それでも、砂かきはやがて疲れはてた。これを避けるためには、固そうな砂地を探して、ある程度の速度を保って、左右のワダチを走るのだが、これにも問題があった。肝心の方向を見失って、方向がまったくわからなくなってしまうのである。

 そこで、近くに通っていた線路の枕木の上を走ることを思いついた。始めは順調だった。左手はそこそこのソフトサンド、右手は絶対走れないソフトサンドを見ながら前進した。ところが、また問題があった。レールは灼熱の陽光で熱せられた上、重い貨車が長時間通るので、レールの表面両端から糸ノコのような鉄片ができ、これが無数に落ちていたのである。パンクの連続になった。また、ときには貨車や路線修理用のディーゼルカーが通るので、その都度、鉄片がつきでたレールをまたぐため、タイヤを斜めに乗せてからまたぎ、ソフトサンドに降りなければならなかった。この登り降りで、またパンク。いったん線路から降りると、低地のソフトサンドから線路に登るのは難しかった。

 3度目の登りでは、ついに登れなくなってしまった。前輪はレールの手前、後輪はアリ地獄のようなソフトサンドに埋まったまま。四苦八苦していた。列車がきたら大変だし、線路の小石や鉄片で、手足は傷だらけにして格闘していた。すると、地平線の彼方から、なんと4台のVWがきたのである。すぐ、車の前に、牽引してもらいやすいようにワイヤロープをつけ、待った。やがて4台が近づくと、両手を上げ、前進できないように車の前に立ちはだかり、大声で止めた。
 自動車旅行者の仁義は、世界共通である。すぐ、牽引してもらって線路の反対側にでた。「おまえ一人か」「気違いじゃないのか」「まったく、日本人はカミカゼというが、その通りだな---」「この先は、比較的固い砂なので、時速60〜80kmで飛ばせば大丈夫だ」「ところで、南はどうだ」。その後、砂漠の情報交換をし、健闘を誓ってわかれた。

105.ズエラット村の外れにあるお墓が、殺風景と写るか、当たり前と思うかは、見る人の育った環境次第だろう。ここから約500km南のアクジュジュでさえ、3〜4年間に1滴の雨もないといっていたから、ここで雨がふったのは何10年前だろうか。お墓に花をあげるのは、ほぼ全世界共通だから、ここでは造花がよいかも知れぬ。

106.砂漠のベルベル人107.放棄車の落書き  108.砂地脱出    109.3度目のマラケシ  110.さらばアフリカ

106.砂漠で、無数にあるワダチに迷った。ゆき先が、風で消えてしまった所も多かった。心細い思いで、しばらく走ると、たいていはまた現れたから助かった。ところが、ある箇所では、いくら走っても現れなかったのである。車を止め、磁石で方向を再確認した。しかし、方向を定められず、思案に暮れた。

 しばらくすると、偶然、ヒトコブラクダ1頭に女が乗り、男は手綱を引き、遊牧民らしき人が現れた。東北方向からきた。急いでかけより、汗臭い彼の民族衣装にしがみついて、方向を聞いたら---「1000ウギア(6000円)くれれば教えてやる」という。人の弱みにつけこんだ返答に、困惑した。何度お願いしても、無料ではだめだった。終いには、彼らの目的地に向って、離れてはじめた。値切れば、ある値段で情報が買えたかもしれなかった。しかし、これまで、砂漠の民との駆け引きは、北アフリカで経験したから、彼らがいかにしたたかか知っていたので、安易にその手には乗りたくなかった。さらに、あくまで不必要な出費は厳禁だったから、見とおしさえ立てば、彼との取引など無用だった。

 数分間、彼の根性と情報の信憑性、私の予算と方向観等を熟慮し、徹底してお願いに留めた。すると、数10m過ぎ去ってから、笑顔で黙って東北をさした。それは、彼らがきた方向で、砂漠の中心部よりの方向だった。私は、サハラの中心方向にゆくには不安があり、自分が描いていた方向は北だと思い、結論は北にした。もし、彼がいった方向が正しくても、北にゆけば、やがて東北に位置するモーリタニアのビルモグレンと、西北に位置するモロッコ領サハラのアイウンとのルートに、突き当たるはずだからである。もし、サハラの中心方向にいって、やがてワダチを見失い、ガソリンが切れたら遭難する、と心配したからである。

 ---結果的には、彼の指示した方向は、正しかったと思う。そして、彼のやり方は少しハードだが、砂漠でのこの取引には、生活が厳しいだけに、それだけの商品価値があり、正統性もあるのである。砂漠で、命の保証と1000ウギアは、決して金持ち旅行者にとっては高くはなく、彼の要求は、ある面でもっともなのである。なぜなら、先進工業国は有無をいわさず、工業製品等の値段に年金、軍事費、健康保険料、交際費、広告費---と、彼らにはないあらゆる豊かさを上乗せしてくるのだから。

 それから、やっと見つけた人家は、まさに”オアシス”だった。ここでは、正確な位置を知った。私が予想したとおり、ここは、右手のモーリタニアのビルモグレンと、左手のモロッコ領サハラのアイウンとのルート上で、モロッコ領サハラのゲルタゼムールの手前だった。したがって、いったんモーリタニアのビルモグレンに戻り、出国手続きをしてから、またモロッコ領サハラのゲルタゼムールに引き返した。

 ところが、ビルモグレンをでて西にいくら走っても、ゆきに走ったルートに乗れないのである。距離からすれば、とっくにゲルタゼムールに着いていなければならないのに、ゆく手は、ただ無数にあるワダチだけで、しかも南に向けて走っているではないか。危険を感じ、ビルモグレンに一目散に戻った。そして、国境事務所でガイドを探し、今度はガイドの案内で、ゲルタゼムールに引き返すことができた。

 ズエラットからモロッコのタンタンまでは、ドイツ人で単独世界自転車旅行をすでに16年間していたWALTER STOLLEさんを乗せた。彼は、ヨーロッパの自転車競技選手権で2回チャンピオンになったことがある、といっていたが、2001年のギネスブックには、「単独、自転車で、18年間、159か国、643,200km走行のロンゲストジャニー者」として掲載されていた。
 なお、旅行後、私の本を読んで、種々の質問をかかえて会いにきた長野県の春日光明氏(故人)も、自転車で世界一周の旅を3年半した。彼は、故郷での家族の死を期に帰国し、その後旅を断念したが、一流企業を辞め、ロマンに満ちた人生を選んだことには共通なものがあるだけに、早世を悼む。

107.砂漠では、故障やアクシデントがあれば車やタイヤは放棄される。このモーリタニアルートでは、交通量がないに等しいから少ないが、アルジェリアのタマンラセットルート(通称ホガールート、またはゴールデンルート)ではたくさん見られる。ここでは、2人で記念に落書きをした。

108.旧スペイン領サハラ(現モロッコ領西サハラ)の舗装道路に乗ったときは、思わず舗装道路にくちづけをした。やっと、写真を撮る余裕もでてきた。それまでは、砂漠という危険地帯からの脱出に全神経を遣い、食事や睡眠でさえもまともにとれない有様だった。

109.マラケシは一段と近代的になり、昔の摩訶不思議な面影や情緒はなくなったが、モロッコではナンバーワンの観光地に変わりはない。できれば、摩訶不思議さを持ち味に、いつまでも旅人を魅了してほしいものである。

110.モロッコ南部の砂漠では、あの釣師達が、同じ場所で同じテントを張り、大西洋岸であいも変わらず一本釣をしていた。アンゴラからスタートして1年8か月、釣師との5年ぶりの再会---、青い地中海ではイルカが群れていた。

 1994年4月、南ア人のケビン・カーター氏は、スーダンの飢餓を世界に伝えるために、彼が撮った「ある幼児と、背後で襲いかかろうと待機しているハゲワシ」の写真に対して、ジャーナリストとしては名誉あるピューリッツァー賞を与えられた。その後、この写真や賞の授与に対して、世界中から種々議論があったのは、承知の方が多いと思う。多くの方が「私だったら、どうしたか」、と置き換えて考えたと同様に、私も考えさせられた。

   そのような話題を知る前の1975年4月、私もアフリカで強烈なショックを受けた。できれば撮影して、世界に伝えたかった。だが、その情景は、残念ながらカメラに収められなかった。

 それは、マリのトコト駅前の水くみ場の情景だった。少年達が、パンツ一つで大デベソをだし、天真爛漫に遊ぶ。そのかたわらで、足が不自由な10歳位の少女は、懸命に働いていた。よつんばいになって地を這い、水バケツを頭に乗せて、水をこぼしながらも自宅に運ぶのである。何度も、運ぶのである。瞬間、写真を撮りたかった。より多くの方に、アフリカを知ってもらうには、格好の被写体だと思った。しかし、車からカメラを持ってきて彼女にレンズを向けるなど、とてもできなかった。数分間、自問自答したが、一瞬の彼女の目が、「私を特別な目で見ないで」「見知らぬ人となんか、かかわりたくない」「写真の被写体なんて、とんでもない」「そっとしておいて」等といっているようで、どうしても勝手な行動は許されない、と思った。ましてやイスラム文化圏では、女性を写すには勇気が要る。そして、ただ、息をのんで、素知らぬふりをして少年達と遊んでいた。
 世界では、約10円の予防薬でこのような小児麻痺にかかる子供を救えるのに、それができないのが現実である。(マイクロソフト社の創設者ビル・ゲイツ等は、世界のポリオワクチン代の90%を支援している)西欧型近代化を拒む僻地のイスラム社会等では、大人の無理解がこれに輪をかけ、悲惨な人間をつくりだしている。

 私は、この旅を通して、多くの方に何かを伝えたいが、写真がないこの光景を、一緒に考えていただければ幸いである。地球上には今でも、古タイヤ1本あれば、10人分の丈夫なサンダルができ、破傷風等の危険をさけることができる人々がいる。わずかボール1個あれば、子供達がどんなに喜ぶか、ぜひ想像してみてほしい。そして、力になってほしい。
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