アフリカA(タンザニア〜スーダン)

56.幹線道路脇の象  57.首都のインド洋海岸58.何ガニのはさみ? 59.浜の魚市場    60.浜辺のキャンプ

56.タンザニアの幹線は、国立自然動物公園内を走っているところがある。そこで、ミクミ国立公園等ではときどき野生動物に遭遇する。

57.大勢の中華人民共和国人が、道路や鉄道建設等に従事していた。ザンビアの、銅鉱石の世界的な産出地ンドラとダルエスサラーム港を結ぶ鉄道は、長さ約2000km。沿線では、飯場といった感じの粗末なプレハブで集団生活していた。駅のデザインは、中国風を感じさせた。
 首都のダル・エス・サラームとは、アラビア語で”平和な港”という意味である。7世紀にはアラビア人が住んいた。この辺で使われるスワヒリ語は、黒人バンツー族の言葉をベースとして、これにアラビア人の言葉が混ざってできたものである。首都はインド商人が多い。

59.真っ白な砂浜に、小さな漁船が帰ってくると買い手が群がる。アオリイカ1パイ0.4USドル、イセエビ1kg1.5ドル、クルマエビ1kg0.8ドル

60.ケニアに入り,モンバサ港手前20kmの海岸にTWIGA LODGE(1日0.5ドル)があり、ヤシの木陰でキャンプした。洗濯、車の手入れ、車内の掃除、水浴、シャワー---の後、釣をしたら熱帯魚のような色彩豊かな魚が釣れた。餌がないときは、肉片がよい。砂浜には、子安貝がたくさん打ち上げられており、「マサイ族にでも持っていってあげたら、喜ばれるのに」と思った。

61.海岸のキャンプ   62.同左         63.モンバサの町   64.アラビア人の遺跡  65.マリンジの海岸

61〜62.東アフリカの低地は暑く、夜も暑くて寝つけず、蚊との闘いもあって一苦労である。海岸はしのぎやすく、身体の衰えを回復するにはよい。周囲には15組位のキャンパーがいた。

63.東アフリカ最大の港で、船会社も多く、船便を考えるならここがよい。

64.モンバサ港北部のGEDEの遺跡は、14世紀頃のものである。香料「ちょうじ=クローブ」の産地で、古来から有名な沖合いのザンジバル島同様、歴史が深くきざまれている。

65.このキャンプ地では、ロンドンからトラックに乗ってきた、20人弱の冒険ツアー客と一緒になった。1人1500USドルで、「アフリカ冒険トラック旅」、とでもいったらいいのか食事付で、夜は自分のテントで寝る。とにかく、ドライブの連続で、寄りたい所に寄れなかったり、アクシデントも補償しない、といった不満も聞かれるが、手軽にアドベンチャー気分が味わえるので人気がある。アフリカでは何台も出会った。日本人客もいた。アジアでは、ヨーロッパとネパールを往復している、アジア版トラックもある。南北アメリカ版は、見たことも聞いたこともない。

66.涼しいナイロビ   67.市内のキャンプ場 68.子供のチンパンジー 69.赤道標識     70.自然公園内で

66.首都は海抜1660m。昼は涼しく、夜は肌寒くて快適である。あたかも、アフリカの首都のようないろいろな機能が整っており、便利で、旅行者も多い。アフリカ大陸では、入手しづらい日本食品や白菜等も手に入る。各国でのビザ取得は、大使館・領事館がなかったり、時間がかかって苦労は多いが、この国はアフリカ各国と関係がよいので、ここで取れば比較的簡単に取れる。

67.主に欧米の自動車旅行車約15台、テント持参のヒッチハイカーが約20組いて、みんなの最大の関心事である、情報交換に花が咲いていた。マラリアや肝炎にかかり、寝こんでいた者も何人かいた。大麻等に、逆に飲まれてパーになっている者もいた。自動車旅行者には、世界をめざしている者はおらず、多くの仲間から質問攻めにあった。おまけに、オーストラリア・ニュージーランド人等からは、故郷の住所をもらい、その後は大変助かった。

68.ヨーロッパから南下してきた自動車旅行者が、ザイールで20ドルで買ったチンパンジーの子供。親は村人に食べられてしまったという。

69.ナイロビから北西に156kmゆくと、アフリカ大陸の裂け目といわれる大地溝帯になる。かつて、4億年前に、海から褐色の大地にシダ・コケ類が上陸し、大地を緑化して、酸素を生んだ。ここは、350万年前の人類の祖先として、ほぼ完全な形の骨”ルーシー”が見つかった古い地層である。今でも、コンゴ盆地に生息する類人猿ボノボは、”ルーシー”とほぼ同じ骨格、というから興味深い。そして、20万年前に直立歩行のホモサピエンスになり、「よりよい生活や、未知への探究心・あこがれ、新たな発見の喜び等に魅せられて」地球上に広がっていった。生暖かい底に下ってゆくと、数百万羽というピンクのフラミンゴに埋め尽くされたナクール湖にでた。ここからまた北西にゆくと、赤道を通過する。海抜2777mで涼しい。

70.当時のウガンダに、旅行者はまれだった。イディ・アミン政権が、国内の欧米人やインド人等をすべて国外追放にした直後で、追放された人々の家は略奪と破壊に見舞われ、大変混乱して危険だった。世界第2位の淡水湖であるビクトリア湖。そこから流れでた水は、長さ6600kmの世界最長のナイル川となる源流である。湖岸のジンジャの水力発電所で15万kwの水車をまわし、ビクトリア・ナイル→アルバート・ナイル→ホワイト・ナイル→ナイルとなって地中海にでる。その、ビクトリア・ナイルのカバレガの滝の下流が国立公園になっており、ロッジに泊まって「カバレガの滝までの、往復約3時間の船の旅」は、じつにすばらしかった。ただし、転覆したり舟が故障して流されたら---命の補償はない。旅行客はほとんどいず、象の親子がロッジにまでやってきた。夜はカバの咆哮がして、ターザンになったような気分になる。

71.カバ          72.バッファロー    73.カバ、ワニ      74.ピグミーの男性   75.同女性

74〜75.コンゴ民主共和国東部のジャングルの、イトリの森に主に住むピグミー族は”イトリの森ピグミー族”と呼ばれている。ピグミーとは、「男子の平均身長が150cm以下の人種の総称」だが、私には彼らの平均身長は150cmより少し高いように見えた。当時は、野生動物保護の政策から狩猟が禁止され、さりとて彼らへの救済策はまったくなく、生活を支える支柱を失って困っていた。近郊の農家が農繁期になると出稼ぎにゆくが、体力がなくて、長続きしないという。動物保護とともに人間保護をしない動物保護運動とは---!? 私は、このような事態を知っていたから古着・タオル・ハンカチ・塩等を持参したら、大変よろこばれた。

76.スモーキング     77.家とかまど      78.カヌーづくり    79.コーヒー豆干し   80.キナの木

76.おばあちゃんは、慣れた様子で何かの枯草を吸い始め、カメラのシャッターを切るとモデル料を要求してきた。狩猟が禁止された今となっては、観光客は大切な収入源である。彼らが容易に使えなくなった「猿の尾に通した弓と、先端に金属片がついた矢」等の生活道具が、売りにだされていた。ジャングルの川で採取した「砂金約10gを3ドルでどうか」、というやり手もいた。

77.失礼ながら、家のなかをのぞかしてもらったら、枯草を敷いた寝床と、焚き火場しかなかった。もともと、移動しながら狩猟採取の生活だから、簡素が一番である。
 さらにピグミー族探訪

78〜79.元ベルギー領コンゴは、1960年にコンゴ民主共和国として独立した。1971年に国名をザイールに変えて、国内の外国人・資本を追いだした。その後、また国名をコンゴ民主共和国にした。タンガニー湖畔の西洋風建物は、すべて破壊されていた。このため、旧宗主国のベルギー人等が経営する紅茶・コーヒー・キナ等のプランテーションは倒産し、そこで働いていた作業者は失業して、またジャングルに帰っていった。新政府に雇われて、細々と倒産したプランテーションを運営するこのベルギー人は、カヌーをつくり、作業者をキブ湖の島から通わせる予定だという。皮肉にも、ツチ族のルアンダ人である奥さんは、マラリアにかかり熱をだしていた。作業者の1日の労賃では、石鹸1個しか買えないが、住民には貴重な就職先だという。コーヒー豆は、3枚の固い皮をむいて干す。

80.マラリアの解熱剤キニーネは、この樹皮を精製してつくる。ドイツのファルマキナ社(ニバキン名で販売)に輸出していた。

81.キナの樹皮干し  82.ケニア北部の遊牧民 83.アリ塚       84.ブルーナイル峡谷 85.スーダンの田舎

81.1880年の人類の死亡原因の半分は、マラリアだった。私は、サハラ砂漠以南のアフリカでは、常に予防薬を飲んでいた。時間と予算があれば、この地ではニイラゴンゴのカルデラ湖(後に、カルデラ湖の硫化水素ガス爆発で多数死亡)、カフジ・ビーガ国立公園でマウンテンゴリラを、タンガニーカ湖東岸でチンパンジーを見られたが、断念せざるを得なかった。全アフリカの旅は、ルート上の雨期やサハラ砂漠の真夏を避けねばならず、1度ですべてを見る、というわけにはいかない。

 ブルンジとルワンダは、全体に海抜が高くて涼しく、雨量も適度にあって住みやすい国である。従って人口が増えやすく、人口過密から部族紛争が起きやすい。ここに、旧植民地宗主国のベルギーが去って権力の空白が生じ、一定の民主主義が根づく前に、自動小銃等の小火器とラジオというマスメディアが入りこんで、フツ族とツチ族の悲惨な殺戮が繰り広げられた。似たような条件がそろえば、他国も”対岸の火事”ではすまないだろう。

82.タンザニア再入国に際しては、3か月間のビザ持っていたにもかかわらず、酔った役人が「ビザのスタンプの押し方が悪い」「タンザニアのお金180シリング(15ドル相当)を持込んではいけない」等といいがかりをつけ、3日間のトランジットビザになった。有名なセレンゲティ公園、ンゴロンゴロクレーター、キリマンジャロ山---はご破算になった。当時は、南アに入国した者は入国禁止にしている黒人国が多かったので、私もザンビアで新旅券を、ケニアで新注射証明書をつくったり、アフリカ縦横断にはさまざまな障害を克服する工夫をしなければならなかった。イスラエルとアラブ諸国間も同じであった。

 ケニア北部は、樹木がほとんどない半砂漠となり、ラクダ・ヤギ・牛等で生活する遊牧民が暮らす。エチオピア人、ソマリア人、マサイ族等の部族がいる。土づくりの家屋が、炎天下でじっと息を殺して我慢んしているような、殺風景な田舎の小市場では、ラクダの肉が1kg0.3、牛肉0.35、ヤギ肉0.4USドルだった。乾燥しきっていて、小さなつむじ風が何本も、生まれては走り、消えていった。

 エチオピアに入ると、国境から首都アジスアベバにゆきたいというユーゴスラビア人ヒッチハイカーをのせた。理由をきくと、「出国ビザがないので出国できず、首都に戻って取得するため」だという。これはよくある話で、旅行者は事前に十分情報を得る必要がある(ヒッチハイクのときの、上手ないい訳ということもあるが)。後に、サングラスがなくなっていることに気づき、一時は彼をうらんだが、逆に大変すばらしい情報も得た。彼によれば、「乾季にかぎり、毎月1回、あるイギリスの平和部隊員が、スーダン南部の国境の村タンブラから、中央アフリカのバンガスや首都バンギにまで、ランドローバーで買いだしにゆく」という。つまり、長い間、スーダンから西アフリカへの横断ルートをさぐっていた甲斐があり、まさにサングラスの比ではない価値ある情報を得たのである。首都アジスアベバでは、悪路から脱出するときに、タイヤの下に敷く鉄のハシゴをつくった。(ユーゴスラビアでは、地元民のヒッチハイカーに、トランジスターラジオを失敬されていた。また、首都バンギの教会の庭が自動車旅行者のキャンプ場になっていが、ここではヨーロッパから南下してきて、これからケニア方向にゆく人々全員から質問攻めにあい、知ってるこれらの情報を話したところ、みんなから感謝され、多くの仲間と住所交換ができた。これらの住所は、後に大変役立った)

83.アリ塚はサバンナ全域で見られるが、エチオピアのは高さが10m位だった。一般には固い。同じ材質の土でつくった家が多い。雨が極端に少ないので、屋根は平らになっており、原産のコーヒー豆を干していた。コーヒーは、粉も一緒に飲む薬用から、粉をこして砂糖や塩を入れた嗜好品になるまで、数百年かかったという。
 珍しいのは、テフと呼ばれる植物の実の主食である。その粉を練って発酵させ、土鍋で焼いたパンは独特な酸っぱい味がして、野菜や煮豆等包んで食べると、不思議な味がした。それにしても、田舎は質素な家屋、土埃と汗でこわばったボロをまとった褐色の民、ちぢれた黒髪を編んだ独特の髪型や顔手腕足の青い入れ墨、人間も動物も同権といったようにのびのびした振る舞いで同居するロバや牛等の家畜、家畜の乾いた糞塵の浮遊物、家畜の小便等が放つ臭気、傍若無人な蝿、細くて曲がった泥道---で、まるで原始生活に戻ったようで、強烈な印象を受けた。幹線沿いでこれだから、地方は隔絶の世界だろう。

84.アメリカのグランド・キャニオンにも匹敵するスケールの大きな峡谷。ここから、細い舗装道は一気に下って、タナ湖から流れでたブルー・ナイル川にさしかかる。橋をわたると、砂利道が始まって、一気にまた高原にのぼる。空気の色が、見えたような気がした。この後は、再三エンジンが止まり、ついには反対からきたイタリア人旅行者のVWに、23km牽引してもらって修理工場にいった。彼らにとっては逆戻りだったが、「今日は、12月25日のクリスマスじゃないか」「オレ達も、どこかで息抜きをしようと思っていたんだ」、といってレストランに招待された。頭ははげていたが、同年代とおぼしき彼が、「昔は3国同盟の同士じゃないか。オレの名はROBERTOだが、ROMAのRO、BERLINのBER、TOKYOのTOを、親がとってつけたのさ」という。2台のVWに、男女のカップル2組の彼らに助けられた。

85.エチオピアからスーダンへの道は、内戦でほとんど閉鎖され、ゴンダル手前のアゼゾ→メテマ→スーダンのガラバットへのわずか1ルートしか、情報がなかった。それに、このルートは”旅行者が飢餓民に襲われた”等といううわさがあり、西アフリカへゆくには、さまざまな困難があることがアンゴラ到着時からわかっていた。アフリカを北に縦断するならここからスーダン→エジプトへ、他にはザイールを北上して、ニジェールからアルジェリアのルートが一般的である。だが、ザイールは泥道が多く、悪戦苦闘は経験済みで目に見えていたし、最低条件として4輪駆動か、複数のメンバーが必要で、単独でオンボロ・バンには危険すぎた。

 エチオピアの、ゴンダル手前のアゼゾからの221kmは、悪路の連続だった。車が埋まって動けなくなる泥沼、バンパーが当たって登れないほど急勾配な坂、深い谷に転落しそうな狭い道、起伏が激しい岩場、深さ20cm位の粉塵道、川のなかに大石を敷き詰めただけの橋---。悪路は、スーダンに入ってもつづいた。大石がゴロゴロした涸れ川や、車の背丈もあるやぶのなかを、サファリのごとく前進しなければならず、まさに「ジス・イズ・アフリカ!」の醍醐味を味わった。

 国境事務所や人家があるガラバットにつくとホッとして、ふだんは当たり前の、静かでのどかな風景が心強く飛び込んできた。スーダンの国土面積はアフリカ最大だが、舗装道路はごく一部で、ほとんど未舗装である。やぶの林か、半砂漠のソフトサンドか、平坦な砂漠のなかにワダチが無数にあり、アフリカの自然そのものである。雨期には通れない地方が大半で、自動車旅行者泣かせである。ブルー・ナイルにさしかかると、さっそく服のまま飛び込んだ。「ナイルの水を飲んだ者は、ナイルに戻る」のいい伝えがあるので、飲んでおいた。

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