アジア@(トルコ〜イラン)
1.中東 2.イランと周辺国 3.ネパールと周辺国 4.イスタンブール 5.同左
4.イスタンブールは、ヨーロッパとアジアをわけるボスポラス海峡に面した古都で、かつてローマ帝国のコンスタンチヌス大帝が、首都をローマからここに移し、コンスタンチノープルと呼称した。またオスマン帝国も、首都をおいた交通の要所である。小河口にかかるガラッタ橋。どこでも初訪問はその地に飲みこまれてしまい、とまどいが多いが、2度目になると冷静に見られる。市民の服装や街のたたずまいは、6年前より近代的になっていた。ただし、グランドバザールはきれいになったのはよいが、物価高になり、以前と比較するとその魅力はうすれた。過去と比較しなければ、それはそれで楽しい所で、博物館の宝石等、何度訪れても目を見張るものがある。
5.ゴミや船上の魚売りが、アジアを感じさせる。柿やザクロがお店に顔をだすのも、ここから東である。
6.ガラッタ橋の魚売り 7.魚のから揚げ売り 8.ボスポラス海峡の橋 9.ケマルアタチュルク廟 10.アバノス地帯
7.サバのような、魚のから揚げをパンにはさんでくれて5リラ(0.3ドル)。揚げたてだから、うまい。薄切り肉を串刺しにして、立てて回転させ、焼けた外側をそぎおとすドネルケバブは、料金次第だが、値が張る。おなじみのシシゲバブ(イランではチェロカバブ)の方は、庶民的である。公衆浴場は、有名な男のマッサージ兼あかとりサービス付で、40リラ(2ドル)だった。
8.1970年にはなかったが、その後熾烈な国際競争の末(またはODAか?)、日本のあるグループが落札して「ボアズチ(橋の名)・キョプルス(橋という意味)」という、ヨーロッパとアジアをつなぐ橋が完成していた。
国際競争といえば、気楽な旅をしていても考えさせられることがあった。オイル景気に沸いて、急ピッチで近代化を進めていたナイジェリアでは、港の設備がなく、沖合いに50隻位が、陸揚げの順番待ちをしていた。新港建設計画では、巨額の入札の結果、日本のあるグループは敗退した。この敗因は、多分、入札者のみが以後の教訓にするのだろう。
戦国時代のことわざにもあるとおり、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」のように、敗因は勝因より分析しやすいものである。これをあてはめ、日本の敗因を詳細に分析し、他の商社やメーカー等の入札者にも知らせ、共有して、次回に生かさなければ他の者が同じ失敗を繰り返すだろう。マクロ的に、しかも長い目で見れば、それは自分にはねかえってくるのである。結果的にはっきりしているのは、日夜”自由貿易下で国際経済戦争”が行われており、それぞれの勝敗が円の為替相場、対日投資、国内産業の繁閑、雇用・失業等、自分の生活に直接影響しているのに、ほとんどの日本人は無関心で、各企業がバラバラに対応していることである。日本株式会社といわれようが、WTOのルールを守れば、後は自由である。繁栄も衰退もある面は戦略次第である。国際自由貿易という環境で、多くの後発国が、空前の規模で先進国を追い上げるという環境変化に、個人企業対国家戦略の土俵でいいのだろうか。この愚を避けなくてよいのだろうか、ということである。
各国政府は、マクロ的な対応として昔から無償留学生受入、ODAの活用(貴重な税金でまかなうODAは、各国ともすべて紐付きである、といってよい)、文化交流等の環境整備や知恵をめぐらせている。政府は、”一見平和的だが、自由貿易下で熾烈な国際経済戦争が行われており、これが個人にも直接・間接的にかかわってきている”という、昔と大いに異なる新事実をもっと知らせ、これへの対応を図るべきである。さもなければ、「日本の個人零細農家」対「世界の巨大農業機構」等で、勝敗は目に見えており、鎖国時代の発想からぬけだせない日本人は、困窮するだろう。かつてアメリカやイギリスが、戦争で荒廃した日本やドイツの躍進に大きな影響を受けたように、かつてはおとなしかった開発途上国の躍進が、日本の状況を一変させる時代がきているのである。長期旅行者は、持参するお金の為替変動に敏感だから、より強い通貨を選定するが、いまや個人の国内生活や国外の旅も、所属する国家の長期経済政策や経済能力等と直結しているのである。これらの事情を踏まえ、日本は「情報省」を設置し、情報収集の位置付けをより鮮明にすべきである。織田信長は、価値ある情報をもたらした者に最大の褒賞を与え、これをもとに対策をめぐらし、弱小集団を強くした。そして、ついには天下さえとった。革命的なパソコンとて、情報収集と一刻も早い情報伝達が死命を制すと、アメリカの軍が先陣をきった成果である。このことから学ぶべきである。
エシュロンという国際組織はアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアの「電磁波通信=コンピューターによる通信」、「電話・ファックス・無線等の通信」を個人のものまで盗聴して政治・経済・軍事等に使う秘密組織である。本部はアメリカにあって20,000人が従事し、日本には、青森県の三沢空軍基地内に「エッグ」と呼ばれる巨大アンテナやコンピューターが、その任務についているといわれている。日本では、各省庁の予算から「外国の情報収集やそれらの分析、その後の活用」等に、どの程度使われているのか不明だが、外務省の秘密予算規模が象徴するように、年間GDPからすると少なすぎるように思う。昭和29年に発足した日本海外貿易振興会や昭和33年に改称・強化された日本貿易振興会(JETRO)等はそれなりの効果があったと思うが、国際分業・貿易自由化・共産圏を含めた市場経済等の色合いを濃くした大変革時代が到来しており、一刻も早く気づくべきである。
9.その昔、トルコ界隈を中心とするオスマン帝国は、アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがる広大な回教国家をつくった。第1次大戦後、政教分離を掲げてケマル・アタチュルクは、トルコの近代化を図って国民革命を成功させ、建国の父と仰がれている。その政策は、日本の明治維新を参考にしたという。トルコの宿敵ロシアを破り(日露戦争)、オリンピックではレスリングの強豪でよく日本と対決すること等から、親日的な方が多く、たびたび厚遇をうけた。余談だが、美女は世界中にいて優劣はつけがたいが、地球の美男子はどこにいるかといえば、トルコにいる、といいたいほど”男の中の男”がいる。
10.トルコ全土には、ヒッタイト・アッシリア・フェニキア・ペルシャ・ウラル・ローマ人等の遺跡や出土品が多い。首都アンカラ南東にあるカッパドキア地方は、世界遺産にも指定されている奇岩の景観が別世界を感じさせる。カイセリ、アバノス地方の川沿いには、砂岩が多く、これらに穴を掘って暮した紀元前2000年頃のヒッタイト人から、近世のイスラム教徒の侵入にいたるまで、さまざまな生活の跡が見られる。現在も、人が住んでいる洞穴がある。カイマクリやデリンクユでは、地下に巨大な住居があり、15,000〜20,000人の住居穴の5〜6%が見られる。この辺の飼い犬は、首にトゲがついた輪をまいており、私の車にも襲いかかるので恐かった。自転車やオートバイの旅は、もっと難儀だろう。
11.風化・浸食作用で 12.同左 13.ナツメ 14.野ブドウ 15.住居跡
13〜14.採り放題だったので食べてみたら、いにしえの味がした。
15.内部は何もない住居跡、近くには小川、離れた所には大きな川、周囲の荒地にはアザミが咲き、野ネズミが走り、土器や骨が散在していた。じつはこのとき、ネズミが1匹車内に住みつきはじめた。これが、夜中に車中を走ったり、就寝中に、私のくちびるをなめたりするので、薬品をまいた。だが、効き目はなかった。シリア→ヨルダン→イスラエル→ヨルダン→シリアを一緒に旅して、2週間後にトルコに戻り、税関検査で車のサイドドアーを開けると、そのネズミが飛びだした。車内には、シリアで買った安いガソリンが満載されており、あまりの臭さに逃げだしたのだろう。それとも、故郷であるトルコに戻ったのがわかったのかな?中南米では、50本位のバナナの房をまるごと車中に入れたら、一緒にクモやゴキブリ等が紛れ込んで、後が大変だった。
16.階段 17.水場 18.フレスコ画 19.同左 20.シリアの首都
18〜19.後世の隠れキリスト教徒・ギリシャ正教徒が描いたものだが、後のイスラム教徒侵入後、偶像崇拝禁止によりほとんどが破壊され、傷跡が痛ましい。
20.シリアの首都ダマスカスは”人類が継続して住んでいる所としては最古”というのが、自慢だった。新たな町に入ったらまず観光案内所にゆき、地図や資料を入手するのだが、ここではアラビア語のなかで突然、日本語による”八木節”が流れていた。アジアを実感した。国立博物館には、15文字のアルファベットの原型文字が刻まれた小石があり、最古の都市であることがうかがえた。地中海からの湿潤な気候と、付近に山があるおかげで、砂漠の外れでも水と緑が絶えなかったのだろう。それと平和である。ダマスカス北東230kmの砂漠のなかのパルミラの遺跡は、当時の交易の要所で、それゆえ栄えたが、そのために敵を生みやすく、やがて征服されて廃墟となった。チュニジアのカルタゴも、同じ道をたどった。シリアは国全体がイスラエルとの対峙体勢にあり、対空ロケット基地がゴラン高原を監視していた。軍服姿の女性や女学生もいた。
21.シリアの女性 22.円形劇場跡 23.ぺトラの遺跡へ 24.同左 25.同左
21.市場で見かけた女性には、スカーフはかぶっているが、顔を覆うヘジャブはない。宗教の解釈の違いか、アフガニスタンなら刑罰ものである。市場では、千差万別の古式ゆかしい計量器が使われており、昔の面影がいっぱい残っている。おそらく計量器の整合・検査はなく、例えば各商人の1kgはバラバラだろう。それでも、この計量器で、この重量で、いくら、といえば、問題はない。昔からの方式にも、いい分はあるだろう。
22.ヨルダンのジェラシュには、ローマ時代の都市跡が、首都アンマンにはローマ時代の円形劇場跡があり、歴史を感じさせる。緑は少ない。水が極端に限られているので、洗車はほとんど不可能である。ある日本の商社員は、顔を洗うのも躊躇している、という。
23〜25.ヨルダンの首都アンマンから、南に約270kmゆくと、右手にペトラの遺跡がある。後の映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」の舞台になるほど、神秘的な無人の遺跡である。付近のハゲ山に上がると、遠くに陽炎が揺れるヨルダン渓谷、右手には海抜マイナス400mの死海にいたる位置にある。昔は水があり、歴史には名を残さない民が、何代にもわたって住んだと思われる砂岩の山間に、その生活跡がある。紀元前2世紀頃、ナバテアン(ナバタイ人)という民が築いた神殿らしき跡、紀元後106年にローマ人が征服し、彼らが築いた円形劇場跡等がある。神殿にはレリーフの階段があしらってあり、天国への願望が込められている。西暦363年の大地震で壊滅し、今は住む人はいないが、顔腕手足等に入れ墨をしたベドウィン人が、観光客相手に出土品だといって土焼き人形や古銭等を売っていた。権力機構の栄枯盛衰を目の当たりにし、したたかなのは名もない民かと思った。
26.ぺトラの遺跡 27.同左 28.同左 29.同左 30.同左
31.ワディラム他 32.同左 33.同左 34.同左 35.同左
31〜35.近くのワディムサとともに、映画「アラビアのロレンス」の撮影地で、なにもない砂漠より変化があって絵になる。地元の遊牧民(ベドウィン人)にアラビアのロレンスの物語を聞いたら、知らないといっていた。外国人が英雄で、自分達は救われた、という筋書きには、賛同できない気持ちがよくわかる。考えすぎか?
36.アカバ湾 37.ヤシの木陰で昼食 38.イスラム寺院 39.嘆きの壁 40.同左
36.ヨルダンはイスラエルによって地中海への港を奪われ、このイスラエルとの国境にあるアカバ湾が唯一の港
37.山には樹木がないのが当たり前の地にあって、木陰は貴重である。漁船は見当たらない。イスラエルではアカバ湾の水中にプラスチックの帯を海草のように吊り下げ、魚の増殖実験を行っている、と後日聞いた。
38.エルサレムの、金色のイスラム寺院「岩のドーム」
39〜40.嘆きの壁は、かつてローマ帝国に幾度も破壊された、ユダヤ教徒の神殿の基礎部分である。エルサレムはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地で、その帰属や管理面でトラブルが絶えず、旅行者は観光スポットで常に危険と背中合わせになる。ユースホステルでは、世界中の旅人とこれらのテーマについて話し合った。だが、もともと宗教観が違う私は、”門外漢”として写っただろう。人は、宇宙の真理について99.99---%も知らず、ほとんどの謎は、ほとんど解けないまま、心の不安は解消されないまま命を閉じる。これが、世界をまわっての、愚直な感慨である。しょせんは、人間は地球の生態系の一部にすぎないのである。地球は太陽系の一部、太陽系は銀河系の一部、銀河系は宇宙の一部、その宇宙でさえ、今なお膨張して、先が不明である、という。たかが地動説や進化論等でぐらついているが、科学技術等の発達で、今後はますますその真実が解明されるだろう。そして、科学技術等の進歩に感心が薄い宗教は、自然淘汰されるだろう。欧米の若者でも、私と似たような見方が少なくなかった。
41.嘆きの壁 42.パレスチナ人の店43.ローマ人?の遺跡 44.イランのウルミア湖 45.韓国のトラック野郎
43.アレッポ?の遺跡
44.シリア北部には、オッパイを伏せたような土づくりの家が多い。トルコ東部の真冬は、ときにマイナス40度の寒さと雪で、車の通行は難しい。11月12日でも、フロントガラスは霜で真っ白になった。
最東部では、クルド人?の子供達に石を投げられ、危うくフロントガラスを割られるところだった。この辺は、何か殺気立っているのか、すべての車は外敵だとばかりに、ゆくさきざきで投石された。子供のいたずらをとがめるより、私にはクルド人がたどった民族虐殺・追放・流浪等の悲惨な歴史が思い起こされ、いまでもイラク、イランとまたがった地域で苦しんでいる彼らを思うと、複雑な気持ちになった。そして、多数民族に生まれた自分の運命を、どのように理解すればよいのか、いつもわからなくなるのである。
かつてのユダヤ人、ジプシー、在日朝鮮人、在米日系人、アメリカインディアン、インディオ、チベット人、各地の先住民---、そして、今日のユーゴスラビア国の民族毎の分裂を見るとき、”人はいったん熾烈な生存競争になると、民族毎に運命共同体をつくりやすく、ときには他民族を排除する””人類の能力・程度は、まだこの次元なのだ”と痛感する。ヨーロッパ共同体が、紆余曲折をへて、本格的に軌道に乗るのは、いつの日になるだろうか。
背後の、海抜3710mのサハンド山は雪をいただいているが、あたりには樹木が見当たらない殺風景な塩湖。灌漑設備等は今一つ整備されておらず、男は白いターバン、ダブダブのズボンに巾広の帯等と民族衣装が日常着の、古式ゆかしい地域である。
45.ペルシャ湾にむかって、往復2車線の舗装道を走行していると、大型トラックが「止まってくれ!」と合図する。止まると、韓国から出稼ぎにきていた若者が、私の車の後部の日の丸を見て懐かしくなり、声をかけた、という。ここには仲間が3000人いる、といっていた。輸入品の戦車や食料品等を運ぶ大型トラックの数は、ものすごかった。反対に、天然ガスの廃棄ガスが燃える原野では、失業したのかラクダがのんびりしていた。私はこのサイトで「地球ドライブのノウハウ」を提供しているが、地球をドライブするのは単に先進工業国人や金持ちだけでなく、広く開発途上国といわれる国々の方にも夢を実現したいただきたいと願っている。